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大昭和製紙、業界トップから消滅までの転落を招いた「創業家の家族内闘争」

文=有森隆/ジャーナリスト
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大昭和製紙、業界トップから消滅までの転落を招いた「創業家の家族内闘争」の画像1「Getty Images」より

 衆議院議員や建設相、大昭和製紙社長、静岡県知事などを務めた斉藤滋与史(さいとう・しげよし)氏の告別式が8月27日午後1時半、静岡県富士市青島のJA富士市やすらぎ会館で行われた。滋与史氏は8月9日、心不全で死去した。この日が100歳の誕生日だった。喪主は元防衛庁長官で養子の斗志二(としつぐ)氏。

 大昭和製紙日本製紙に吸収されて、今は存在しない。「大昭和王国」を築いた斉藤一族は、静岡県の経済人のなかでも特異な存在だった。

 大昭和製紙の創業者、斉藤知一郎(ちいちろう)氏は立志伝中の人物だ。製紙原料のブローカーからスタートした知一郎氏は次々と製紙会社を買収し、1938年、大昭和製紙を設立、製紙業界のトップを走り続ける王子製紙に「追いつけ追い越せ」との気持ちをたぎらせた。その精神は長男の了英(りょうえい)氏に引き継がれた。

 1961年2月16日、知一郎氏が亡くなり、了英氏が45歳で新社長に就いた。海外での拡張策が成功し、一時は王子製紙を抜いて業界のトップに躍り出た。「半分の社歴しかない大昭和は王子を2倍のスピードで追いかけ、とうとう追い抜いた」と評された。

 斉藤家は華麗な閨閥を形成した。

 知一郎氏の次男・滋与史氏はトヨタ自動車の創業者一族の豊田喜一郎氏の次女・和可子氏をめとった。滋与史氏を企業ぐるみの選挙で衆議院に送り込み、当選6回。建設相の肩書が付くや、地元静岡県の知事に鞍替えさせた。静岡県知事の椅子に座るのが斉藤家の悲願だった。

 了英氏の閨閥づくりは華麗だった。長男・公紀(きみのり)氏の妻は、三井財閥の総帥・團琢磨の親族。次男・斗志二氏は元厚生相増岡博之の長女と結婚。三男の知三郎(ともさぶろう)氏の妻は中曽根康弘元首相の兄の長女である。四男の四方司(よもじ)氏はブリヂストンの本家であるアサヒコーポレーション・石橋徳次郎氏の娘を妻に迎えた。石橋家を通じて、鳩山一郎元首相、池田勇人元首相とも縁戚になった。

「中央で名声を得る」というのが、田舎の個人商店から大企業にまで昇りつめた知一郎・了英親子の夢だったのかもしれない。

兄弟で骨肉の争い

 了英氏の下に、滋与史氏、梅子氏、喜久蔵氏、孝氏、平三郎氏の弟妹がいる。末弟の平三郎氏は夭逝した。一族の家父長である了英氏にとって、弟たちは自由に動かす手駒のようだった。そのため、兄弟たちの仲はギクシャクした。

 1980年代、増産を続けてきた紙・パルプ業界は深刻な不況に見舞われた。企業の体力以上の設備投資を敢行し増産に努めていた大昭和製紙は、大量の在庫、巨額の借入金を抱え、経営危機に陥り、メインバンク・住友銀行の管理下に入った。

 住友銀行の取締役から大昭和製紙の副社長に派遣された玉井英二氏(のちの住友銀行副頭取)が率いる再建チームと、工場所在地の地名からとって“鈴川天皇”と呼ばれた了英氏が死闘を繰り広げることとなる。

 玉井氏ら再建チームは快刀乱麻の外科手術を断行した。ゴルフ場をはじめ、有価証券などをことごとく売却して借入金の返済に充てた。このなかには了英氏が愛蔵していたシャガール、ピカソ、マチス、梅原龍三郎などの絵画コレクションも含まれていた。了英氏は悔しさのあまり「住友は乞食の布団まで剥ぎやがる」との名セリフを吐いた。

 82年、了英氏は相談役に退き、建設相だった弟の滋与史氏が大昭和製紙の3代目社長に就いた。滋与史氏は了英の個人商店だった大昭和製紙を近代的な株式会社へと転換を図った。銀行の再建チームが去り、了英氏が第一線へのカムバックを狙い続けていることに危機感を抱く滋与史氏は84年、自分は空席だった会長に就き、喜久蔵氏を4代目社長にして、了英氏を封じ込めた。

 兄弟のなかで了英氏と喜久蔵氏は仲が悪かった。そのため、了英氏は「滋与史や喜久蔵が住銀とつるんで“自分の会社”を乗っ取ろうとしているのではないか」と疑心暗鬼に陥った。

 85年4月、クーデターが起きる。了英氏が社長解任の動議を提出し、喜久蔵氏は社長を解任された。土壇場で了英派に寝返った孝氏が論功行賞によって5代目社長に就いた。喜久蔵氏は最高顧問という、名ばかりの“屋根裏部屋”に押し込められたも同然だった。

 滋与史氏は喜久蔵氏の解任に反対したことから微妙な立場となった。政治活動を続けるには、大昭和製紙の支援が必要だ。そこで、政治に専念して経営から身を引くことで了英氏と折り合いをつけた。

奢れる者久しからず

 86年、了英氏は代表取締役名誉会長として経営の表舞台に返り咲く。復権を果たした了英氏は意気軒昂となり、住友銀行とは縁切りを宣言。それにあたって取締役会にも諮っていない。さらに、返す刀で楯突いた弟たちを追放した。

 89年、了英氏の長男・公紀氏が6代目社長に昇進した。大昭和製紙を自分の代で「了英王国」にするための布石だ。了英氏は「公紀に20年は社長をやってもらう」と豪語した。

 その高揚感からだろう。了英氏は1990年5月、ゴッホの『医師ガシェの肖像』(落札価格125億円)と、ルノアールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(同118億円、いずれも当時の為替換算)を落札して話題になった。「ゴッホとルノワールは自分の棺桶に入れて焼いてくれ。(自分が死んだときの)遺産相続が何百億円になると面倒くさい」と口を滑らせ、世界中の美術愛好家を敵に回した。

 この大失言以来、歯車はすべて狂った。

 バブル経済が崩壊し、大昭和製紙は奈落の底に突き落とされる。了英氏は住友銀行と縁切り宣言したうえに、「口うるさいメインバンクはつくらない」と公言していたため、支援に乗り出す銀行はどこにもなかった。

 93年、了英氏はゴルフ場建設をめぐり前宮城県知事・本間俊太郎氏に1億円を贈った贈賄容疑で逮捕され、代表取締役名誉会長を辞任した。この逮捕を受けて94年2月、中野省吾副社長が社長に昇格した。斉藤一族以外から初のトップとなった。メインバンクはなかったが、融資額が大きかった日本興業銀行などの銀行団が、経営悪化の元凶である斉藤家の支配から脱却することを求めたことが社長交代の引き金となった。30年余にわたり、超ワンマンとして君臨した了英氏の逮捕を機に、経営悪化の責任を斉藤家に取るよう求めたのだ。

 了英氏は95年、東京地裁で懲役3年、執行猶予5年の有罪判決を受けた。翌96年3月、脳梗塞で他界した。79歳だった。

“脱同族経営”に徹底抗戦した了英氏が亡くなったことから、興銀などの融資団と総合商社の丸紅が主導して「大昭和王国」の解体が進められ2001年3月、日本製紙グループ本社(現日本製紙)に救済合併された。

 かくして大昭和製紙の名前は産業界から消えた。日本製紙にのみ込まれ、独裁者のくびきから解き放された大昭和製紙の社員はホッとしたかもしれない。
(文=有森隆/ジャーナリスト)

有森隆/ジャーナリスト

有森隆/ジャーナリスト

早稲田大学文学部卒。30年間全国紙で経済記者を務めた。経済・産業界での豊富な人脈を生かし、経済事件などをテーマに精力的な取材・執筆活動を続けている。著書は「企業舎弟闇の抗争」(講談社+α文庫)、「ネットバブル」「日本企業モラルハザード史」(以上、文春新書)、「住友銀行暗黒史」「日産独裁経営と権力抗争の末路」(以上、さくら舎)、「プロ経営者の時代」(千倉書房)など多数。

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