私は経済評論家の鈴木貴博です。王山覚は私がフィクションを扱う際のペンネームです。小説家としてカルロス・ゴーン氏の国外脱出事件がこのあと、どのように展開する可能性があるのか、とりわけ日本にとって悪夢のシナリオを文章にしてみました。つまりこの文章は経済記事ではなく小説であり、その内容は近未来を取り扱ったフィクションです。
言論人ゴーン
2020年12月29日、日本の主要メディアに激震が走った。
「本日14時からカルロス・ゴーン氏が帝国ホテルで記者会見を開くそうです」
2019年末、日本を無断出国しレバノンに逃れたカルロス・ゴーン被告は、インターポール(国際刑事警察機構)経由の国際逮捕手配書を通じた身柄引き渡しをレバノン政府が拒否したことで、現地で自由の身となっていた。
その後、言論人としてレバノン国内から国際世論に向けて日本の司法制度を批判してきたゴーン氏だったが、つい先週、その活動の集大成として著書の出版発表がレバノンのベイルートで行われたばかりだった。
「いったいどうなってるんだ。日本に戻れる立場でもないだろうに」
「いいからすぐに会場に向かえ! こっちでわかったことは随時情報を送るから」
メディア各社の現場は、少ない情報のなか、会見が行われるホテルに記者とカメラを向かわせた。会見会場に集まった各社の記者はしかし、情報に二転三転させられることになる。13時30分のことだった。
「ゴーン逮捕です。ゴーン氏が日産本社前で身柄確保されたそうです」
あわてて情報を確認する記者たち。あわただしく会場を出て行く社もあれば、人数の少ないメディアはその場に残るか現場に移動するか対応を苦慮することになる。会場では、「14時より代理人による声明があります。現在状況を確認中ですが、そのままお待ちください」とのアナウンスが繰り返し流れていた。とにかく状況が混乱していた。会場外の廊下ではゴーン氏の弁護団だった元担当弁護士に取材陣が集中している。
「とにかく何も聞いていないんです。情報がまったくない」
弁護士もいらだちを隠せていなかった。
定刻の14時よりも20分ほど遅れてゴーン氏の代理人を名乗るアメリカ人が通訳を伴って会見場の舞台中央に現れた。
「最新の情報をお伝えします。ゴーン氏は警視庁に身柄を確保されましたが、さきほどの情報ではすでに釈放手続きにはいったということです。本人の意向で記者会見は16時より同じこの場所で行われます」
すべてが謎だった。なぜ会見? そしてなぜ釈放?
外交官の地位で入国
14時30分、会見会場の各所で記者たちがざわつきはじめた。
「外交官パスポートで入国したって?」
「はい。ゴーン氏はレバノンの経済産業特使として閣僚級のポストに任命されたばかりだということです」
他社の情報がいやおうなく耳に入ってくる。なかにはこの手の情報に詳しい記者も交じっているようで、
「でも日本政府がアグレマン(承認)を出した外交官でなければ外交特権は使えないはずだろう?」
「いえ、アメリカからレバノンに帰国する途中での日本への立ち寄りなので、現在のゴーン氏は日本国の承認のあるなしにかかわらず、国際法上の外交官の地位で入国しているという話です」
「それじゃあ検察は手を出せないということか」
会見会場の会話を聞いているだけで、どんどん情報がアップデートされてくる。
15時、「本日の会見資料をお配りします」というアナウンスとともに16時からの記者会見の概要が発表された。
「日本における著書の出版発表と、ハリウッドでのドキュメンタリー映画の製作発表だと?」
会見に臨むのは3人。まずはゴーン氏本人と、日本での著書を出版する版元の社長が出版について説明する。
「ちぇっ、ライバル会社にベストセラーを持っていかれたかぁ」
どこかの出版社系のメディアとおぼしき記者が嘆息の声をあげる。レバノンで先週発表されたゴーン氏の暴露本とおぼしき著書の題名は、直訳すれば『太陽黒点』、意訳すれば太陽が象徴する日本の暗部という意味になる。
「噂では1998年にルノーが日産に出資をすると決めた当時の日本政府との密約に遡って、爆弾級の暴露情報が実名で開示されるそうだな」
「つまり検察だけではなく日産も行政も政治家もどこに飛び火するかわからないということか」
「それよりもこのドキュメンタリー映画の製作陣って……」
スマホで情報をググった女性記者が指摘する。
「え! アル・ゴアの映画を作ったチームか?」
地球規模の人権問題
会見の主役の3人目はハリウッドの有名プロデューサーだった。ゴーン氏の著書の発表前後の噂では、ゴーン氏の著書を基にした映画が製作されるという話は確かにあった。しかし予想としてはEUのどこかマイナーな国の映画作品程度の影響力にしかならないのではといわれていた。
「なになに、15年前、地球環境について問題提起をしたチームがゴーン氏と手をとりあって今回新たに取り組むテーマは、地球規模の人権問題だと?」
記者会見の資料には、東アジア各国が内政干渉だとしている人権問題を人類の問題として映画で問いかけていきたいと書かれている。具体的には中国による国内の人種迫害、北朝鮮による人権抑圧、韓国によるライダイハン問題とサムスン問題、日本の司法問題と入管問題を主軸として、地球レベルでの人権問題の解決を呼びかけていく映画になるという。
「えー、あのレベルの国々と日本が同列の話になるの?」
「つまり実質的に地球レベルの人権特使としてゴーン氏が自由に世界中で活動を始めるということか?」
「国連が日本の敵に回るってことか?」
16時ちょうど、会見の司会者がマイクの前に現れた。かつて絶大な人気を誇るも不祥事で一線を退いた大物司会者だった。
「本日はお集まりいただきありがとうございます。予期せぬ出来事で会見が2時間ほど遅れてしまいましたが、おかげで映画のクライマックスシーンに使える逮捕シーンをフィルムに収めることができたそうです」
そのにやりとしながらのアナウンスに会場が再びどよめく。会場の興奮がピークを迎えたそのとき、両開きのドアが開かれ、我々がよく知るあの男が記者会見会場に姿を現した。彼はゆっくりと会場を見回す。突然目があった関係者の男が強い視線におもわず飛び跳ねた。
「うわっ! 目が笑っていない!」
そこで目が覚めた。体中をじとじとと嫌な寝汗が流れている。動悸がおさまらない。
「なんだ。ひどい悪夢じゃないか」
そうつぶやきながら夢でよかったと安堵する関係者の姿がそこにあった。
2020年1月2日、ひとりではなく複数の男たちがこのような悪夢の初夢で目を覚ましたという。これからの長く予測できない1年間を暗示するように。
(文=王山覚)
※注:この小説は現実に起きている事件をモチーフにしたフィクションです