元日産自動車会長のカルロス・ゴーン被告が国外に逃亡した。拙著『日産独裁経営と権力抗争の末路――ゴーン・石原・川又・塩路の汚れた系譜』(2019年3月刊、さくら舎)の帯の宣伝文句は「ゴーンの正体は強欲な独裁者!前々からゴーン経営を否定していた著者が緊急書き下ろし!」だった。本書から今回の逃亡劇の芽を抽出してみた(以下、同書からの引用)。
日産の救世主と崇め奉られたゴーン
日産の救世主として登場したカルロス・ゴーンは絶対的な権力者となり、会社を私物化。ほしいままに収奪した。ゴーンも人事権と予算権を握り、独裁者として君臨した。(中略)日産がグローバル化した結果、ゴーンの権力は海外にまで及んだ。ゴーンの行状で際立っているのは、報酬などを巡る疑惑がベルサイユ宮殿での自らの結婚披露宴会費用の流用などを除き、ルノーでは起きず、当初は、日産だけに限られていることだ。ゴーンは日本人を舐め切っていたのか(その後、ルノーでも疑惑の解明が少しずつ進んでいる)。
イタリアの思想家マキァベリは「人間は本来、邪悪のもの」として、人間を支配するために、君主はどうあるべきかを説いた。ゴーンはマキァベリストとして、権謀術数を弄して権力を掌握した。だが、ゴーンが失脚した原因もマキァベリは『ローマ史論』で見通していた。「陰謀を防ごうと思ったら、かつてひどい目にあわせた人間よりも、むしろ目をかけた人間を警戒せよ。そうした人間のほうが陰謀の機会が多いのである」。朝日新聞(2018年12月16日付朝刊)の「朝日歌壇」に次の歌が載った。「才(さい)長けたフェニキア人(びと)の末裔(まつえい)は小菅(こすげ)の空に何を思うか」。選者は「その人のゆかりの地レバノンにフェニキアの都市があった」と講評した。
日産自動車の救世主と崇め奉られたカルロス・ゴーンは、2018年11月19日、逮捕された。水に落ちた犬は叩けの諺通り、悪逆非道の銭ゲバぶりが次々と暴かれていく。その原点は幼児期の赤貧洗うがごとき生活にあった。正式の名前はカルロス・ゴーン・ビシャラ。「祖父は20世紀初めに13歳でレバノンを後にし、ブラジルに渡った。(中略)祖父はリオで少し働くと、アマゾン川流域にチャンスを求めて移った。ボリビアとの国境にあり、ブラジル領にまだなっていなかったグアポレ、今のロンドニア州ポルトベーリョという未開拓地だった。そこはゴムが採れた。祖父は輸送業を手掛けた。数年後、ゴーンの父親のジョージ・ゴーンが生まれた。父は適齢期になると、レバノンに渡った。ナイジェリアで生まれ、レバノンで高等教育を受けたローズと出会い、結婚した。父が祖父の会社を引き継ぐ。ゴーンは、ポルトベーリョで1954年3月9日、ジョージの長男として生まれた。(中略)話し合った結果、母と姉、私はレバノンに移り、仕事のある父はブラジルに残ることになった。アマゾンの密林の未開拓地で育ったゴーン。その貧しさの経験が、あくなき上昇欲、金銭欲、権力欲に向かわせたのかもしれない。
ゴーンの幼児期は赤貧洗うがごとくだった
ゴーンは6歳の時にレバノンに移住する。ゴーンの人生で、母親と暮らしたレバノン時代が一番ハッピーだったようだ。あの傲慢なゴーンが母親に向ける視線は優しい。レバノンは1975年の内戦までは「中東のスイス」と言われ、平和だった。母はそんなレバノンが大好きだった。イエズス会系で高校までの一貫校のコレージュ・ノートルダムに通った。成績は良かった。17歳になると、進路の選択が待ち受けていた。レバノンで高等教育を受けてもよかったが、母はフランスの大学を薦めた。母は美しいフランス語を操り、フランス人以上にフランスびいきだった。母の影響でパリの大学に進学したことが、ゴーンの人生を決めた。
フランス最高峰の理工系大学であるエコール・ポリテクニーク(国立理工科学校)に入学。さらに名門のエコール・デ・ミーヌ(国立高等鉱業学校)に進む。卒業生の多くは国家公務員となったが、ゴーンは別の道を歩む。1978年、仏大手タイヤメーカーのミシュランに入社した。名門校出身で博士号を持ちながら、会社からオファーされた中央研究所への配属を断り工場勤務を希望する。
これはゴーンの「計算高さ」を示す最初のエピソードだ。「私は技術者としてタイヤの専門家になるためにミシュランに入るのではありません。もっと全体的な部分で会社に貢献するために、ミシュランに入りたいのです。そのために最もふさわしいのは製造部門だと思います。製造部門ではあらゆることが経験できます。製品について、工場で働く労働者や技術者のことについて、また経営についての知識を得られるのは製造部門だろうと思いますから・・・」。
優秀の人材が集められる中央研究所を避け、エリートが配属されず競争が緩い生産現場で「目立つ」道を選んだのだ。このもくろみは見事当たる。ゴーンはわずか26歳で工場長に抜擢され、ミシュランの経営陣に目が留まる。「目立つ」ための方法は簡単だった。徹底的なコストダウンを図ったのだ。経費さえ節減すれば、利益は簡単に上がる。名門校出身で頭の回転が速いゴーンは、すぐに、このことに気付いたようだ。
コストカッター、ゴーン経営の原点がここにある。30歳で故郷であるブラジル法人の最高執行責任者(COO)、35歳で北米法人の最高経営責任者(CEO)と、出世の階段を駆け上がる。コストダウンで短期間に黒字化したのが昇進の決め手になった、とされている。1996年、42歳の若さで、ゴーンはミシュランのトップ近くまで昇り詰めた。だが、同族経営で世襲制をとっているミシュランでは、それ以上の地位は望むべくもなかった。野心家のゴーンは、これに我慢できなかった。そんなとき、経営不振に陥っていたルノー会長のルイ・シュバイツアーがゴーンをナンバー2としてヘッドハンティングした。
日産行きを自ら希望
ゴーンは1996年10月、仏ルノーに入社した。ルノーは1898年にフランス人技術者、ルイ・ルノーとその兄弟によって設立された自動車メーカー。1945年、第二次世界大戦後、シャルル・ド・ゴールの行政命令により国営化された。1996年、完全民営化されたが、だから筆頭株主はフランス政府なのである。民営化した年にゴーンはスカウトされ、ルノー入りを果たした。42歳の上席副社長として、ルノーでも徹底的なコスト削減を実施し、収益の回復に貢献した。ゴーンは、正式に「コストカッター」の異名を授けられた。
さらなる転機は1998年。独ダイムラー・ベンツと米クライスラーの合併で、自動車業界は世界的再編に突き進んだ。ルノーは巨大な自動車メーカーに太刀打ちできない。他社との統合や提携を考える時が、とうとうやってきた。当時の日産は、世界中から再起不能と見なされていた。だが、ゴーンは提携相手として日産を本命と考えていた。1999年3月27日、ルノーと日産は資本提携した。ルノーはゴーンを日産に送り込んだ。
「シュバイツァー会長はある日、『送る人間は君しかいない』と私に告げた。ある程度予想はできていた。略歴を考えれば、企業再生や異文化の経験など条件がそろった幹部は私だけだった」、ゴーンは英語、フランス語、アラビア語、ポルトガル語を自在に操るマルチカルチャー(多文化)を体現した人物だ。さまざまな文化に囲まれて育ち、グローバルなレベルで会社再生の成功体験を持つ彼は、モノカルチャー(単一文化)のしがらみにとらわれることなく、日産の改革を白紙の状態から始めることができるとの自信が読み取れる。
「実は交渉がほぼまとまったあと、ルイ・シュバイツァーから『君はどのくらいの確率で成功すると見ているのかね?』と聞かれたことがあります。私は『フィフティー・フィフティーです』と答えました。もう調印間近の頃です。私が『社長は?』と聞き返すと、数字こそ挙げませんでしたが、こう答えました。『君が成功の確率をそんな低く見ていると知っていたら、この話は進めなかったよ。フィフティー・フィフティーの確率なら、私は社運を賭けることはできない』。つまり、シュバイツァーは私よりも楽観的だったということです」。
ゴーンは送り込まれたのでない。自ら手を挙げて日産にやってきたのだ。企業規模が大きければ大きいほど経費節減ののりしろは大きくなる。ゴーンはミシュランとルノーの現場で、それを熟知していた。ここでもゴーンの「計算高さ」が発揮された。1999年6月、カルロス・ゴーンは日産の最高執行責任者(COO)に就いた。同年10月、経営再建計画「日産リバイバル・プラン」を掲げて国内5工場を閉鎖し、2万1000人を削減した。2008年秋のリーマン・ショックを受け、グループ全体で2万人のリストラを断行したから、彼は合計で4万1000人の首を切ったことになる。「コストカッター」はゴーンの代名詞だが、再生の名を借りた“首切り人”でもあったわけだ。
コミットメントが売り物だったゴーンが日産に来たとき、ルノーのドンのルイ・シュバイツァーが課したコミットメントは何か。むろん、公表されているわけではない。だが、ゴーンがやってきたことを見れば、おのずと判ってくる。「日産をルノーの植民地にすること。フランスがインドシナで展開した植民地政策そのままだ。収奪あるのみ。ゴーンは、その役目を完璧にやりとげたといっていいだろう」(自動車担当のジャーナリスト)。
アライアンスの仕組みが完成すると、ルノーの出資比率は最大で44.4%となったが、日産のルノーへの出資比率はわずか15%。しかも、これらは議決権のない株式だ。日産はルノーの経営を完全にコントロールできるという不平等条約が締結されたも同然で、日産の植民地化の準備が整った。
「日本のメーカーのなかでも、一時期、最も優秀といわれた日産の開発部門をルノーは手に入れたい、と考えていた。これ(日産の技術)を使って、ルノーの戦略車を開発する。日産の新車の開発に偏りが出たのは、最初からルノーは日産の開発部門を自分たちのために使うと考えていたからで、当然の帰結である」。
植民地的奪取のもう1つはカネ、配当のかたちでカネを吸い上げた。日産が急ピッチで進めてきた増配政策がそれだ。この果実をフルに享受したのが筆頭株主のルノーである。筆者は2009年、「月刊現代」(2009年1月最終号)に、日産の1株当たりの配当金とルノーが受け取った配当金額(推計)をまとめた記事を書いた。それをもとにその後の数字を精査した。ルノーは日産に8016億円を投じたが、2018年3月期までの配当金で全額回収したことになる。2019年3月期の実績を加えると、ルノーが受け取った配当金の総額(累計)は9696億7400万円となった。日産が出資した約2470億円、さらに11年3月期、16年同期、17年同期の3回の日産株式の売却で、ルノーは1400億円強を手にしている。合算すればこの時点でルノーが得た資金は1兆3500億円を突破した。
ゴーンは無資格検査で謝罪せず
規模を追い求めるゴーンの掛け声とは裏腹に、社内はガタがきていた。日産の出荷前の完成車検査で新たに不正が見つかったことが2018年12月、ゴーンの逮捕後に明らかになった。前年9月からつづく不正の発覚は、今回で4回目。全車に実施するブレーキ検査などの一部が不適切な手法でなされており、「ノート」「マーチ」など11車種の、約15万台のリコールを届け出た。ゴーン逮捕前の17年秋からの検査不正によるリコール対象台数は約130万台に上った。
日産は完成車の検査で不正が後を絶たない。17年9月に資格を持たない従業員が完成車の検査をしていたことが発覚した。18年7月には一部の完成車を対象にする抜き取り検査で、排ガス・燃費データの改竄や不適切な条件での試験が見つかった。9月にもすべての新車を対象にした検査で、決められた試験を省いたことなどが明らかになった。18年9月26日、再発防止策を盛り込んだ「最終報告書を公表。山内康裕執行役員が「膿は出し切った」と一連の不正の終結を宣言していた。にもかかわらず、今回4度目の不正の発覚である。不正を絶てぬガバナンスが厳しく問われた。
日産の一連の不正はゴーンが最高経営責任者(CEO)を務めていた時代から連綿とつづいていた。2001年にCEOに就いたゴーンは、大規模なリストラで業績をV字回復させたが、その後の急激なコスト削減で現場に従業員不足などのひずみが生じ、生産現場が荒廃したとの指摘もある。18年9月末に弁護士事務所がまとめた報告書では「効率性やコスト削減に力点を置くあまり、検査員を十分に配置せず技術員も減らした」とし、「日産の工場は2000年代以降、不適切な検査が常態化していた」とした。最終報告書は「切り捨ててはいけないものまで切り捨てた」と断じていた。
2018年の株主総会では、無資格検査問題でゴーンの公式、非公式いずれの謝罪がないことに対して、彼に真意をただす株主の質問があった。ゴーンは「日産のボスは西川社長だ。ボスの責任を尊重しなければならない。責任逃れではない」とし、決して謝罪しなかった。データ改竄や不正が次々と明らかになった神戸製鋼所、三菱マテリアル、SUBARUはトップが引責辞任した。東レは子会社の社長が辞めている。日産だけが、トップの責任を明確にしなかった。
日本にほとんどいないゴーンが日産から表面上だけで7億3000万円、三菱自から2億2700万円を得た。2社から9億5700万円を得た計算。「日産からの7億3000万円は、勤務実態からみて、日割り計算で実質的に最高の役員報酬ではないか」(自動車担当のアナリスト)。無資格検査問題で、逮捕前にも逮捕後も絶対に謝罪しなかったゴーンの姿勢に、日本のマーケット軽視を感じたのは筆者だけではあるまい。
有価証券報告書への過少申告は、「社員のモチベーションが落ちるかもしれないので、合法的に一部は開示しない方法を考えた」と、ゴーンは供述していたという。社員をパーツと見なし、容赦なく切って捨てるゴーンが、社員の気持ちを忖度するとは驚きだ。「日産社内を含む複数の関係者は、こうした理由を疑問視し、『一番大きかったのはフランスの目ではないか』」と指摘する。フランス世論は所得格差に敏感といわれる。関係者は「フランスで約9億円の報酬が強く批判されるような状況で、日産分を約20億円と公表できなかったのでないか」と指摘。ルノーとのバランスを考慮して同水準の約10億円に抑えたとみている」(「朝日新聞」2018年12月4日付朝刊)。
2008年秋のリーマン・ショックで、自動車業界は100年に1度という大不況に陥った。日産の2009年3月期の最終損益は2337億円の巨額赤字となり、期末配当はゼロに転落した。つづく10年同期は中間、期末とも年間を通じて無配を継続した。グループ全体で2万人のリストラを断行。管理職には5%の賃金カットを実施した。ゴーン神話は、もはや過去のものとなった。
リーマン・ショックが今回のゴーン逮捕の発端となる。この時期、ゴーンは20億円の役員報酬があったにも関わらず、有価証券報告書には10億円しか計上せず、残り10億円を記載しなかった。役員報酬の過少記載が逮捕容疑になった。新生銀行との私的な金融派生商品(デリバティブ)取引で生じた18億5000万円の損失を含む契約を日産に付け替えた特別背任容疑も、リーマン・ショックのときだ。ゴーンが私的な投資の損失を日産に付け替えたとして逮捕された特別背任事件では、取引先の新生銀行が、ゴーン前会長との取引を「社長案件」として特別扱いしていた。
レバノンの邸宅は9億円で購入、6億円かけて改修
やりたい放題の「会社の私物化」が次々と報じられた。社長の西川が糾弾した「私的な目的の投資支出」はそれこそ半端ない。ゴーンが各国に豪邸を構えていることが暴露された。格好の絵(映像)になるから各テレビ局がワイドショーで、その高級住宅を現地レポートしまくっていた。ゴーンは、日本では、東京・港区元麻布の高級マンションに居を構える。だが、「自宅」は世界各地にある。ゴーンが少年時代を過した中東レバンの首都ベイルートや出生地のブラジルのリオデジャネイロ、オランダのアムステルダム、フランスのパリに高級住宅がある。ニューヨークにもあるという。
なかでも、ゴーンのルーツというべきレバノンの3階建ての豪邸は、日産が9億円で購入し、6億円かけて改修されたと伝えられている。かつて地中海貿易での栄えたレバノンの首都、ベイルートは、ゴーンの少年時代までは「中東のパリ」と称され、美しい町だったが、その後、内戦が勃発。いまや、荒廃してしまった。ゴーンの生まれ故郷、ブラジル・リオデジャネイロ。美しいビーチで知られるコパカバーナの海岸沿いに、12階建ての高級マンションが建つ。価格は6億円で6階の全フロアを使っている。
パリの自宅は、エッフェル塔に隣接する高級住宅街。広さは250平方メートルで、資産価値は5億円という。パリの家まで日産が経費を負担している。パリならルノーから金を出させてもよさそうなものだが、(本書を刊行した時点では)ルノーではこういう脱法的な行為は、ほとんどしていない。日産(イコール日本人)は与しやすしと舐めてかかって、やりたい放題、銭ゲバに走ったのではないのか。
「会社経費の不正支出」では、業務実態のない姉にアドバイザー契約を結ばせ、毎年1100万円、計8000万円余りを支払わせていたほか、家族旅行や私的の飲食の代金も日産に負担させていた。ジェット機やヨットをプライベートで使ったときの費用も含まれていた。リオにあるヨットクラブの会員権も支払わせていた。娘の大学への寄付に日産の資金が使われていたともいう。姉はゴーンが子会社に購入させたリオの豪邸で生活しているそうだ。
スーパーエリートに対する劣等感を金と権力で埋め合わせた?
(ルノーにおいて)ゴーンは解任ではなく、辞任だ。ゴーンの後任であるルノーの会長兼CEOにはミシュランCEOのジャンドミニク・スナールが就いた。スナールが卒業したHEC経営大学院は、フランスで200校以上ある高等教育機関「グランゼコール」の中でも名門。前の仏大統領、オランドの出身校である。難易度の高い一部のエリート校の出身者が政治、財界、官僚のトップをほぼ独占している。
ゴーンはエンジニア系の最高峰とされるエコール・ポリテニークとパリ国立高等鉱業学校という2つのグランゼコールを卒業している。スナールとゴーンが決定的に違うのはゴーンはフランス人であると同時にレバノンとブラジルにルーツを持つ点。「野蛮で育ちは悪いが仕事はできる」。これがゴーンのフランスでの評価だ。カルロス・ゴーンはフランスでエリートだったが、スナールのような超エリートではない。彼の心の闇を埋めたのが、金と権力だったのではないか、との仮説が成り立つ。
仏フィガロ紙(電子版)によると、ゴーンは16年10月、ベルサイユ宮殿内にある大トリアノン宮殿で、再婚相手の妻キャロルと披露宴を開いた。ルノーは16年6月、芸術文化の支援を目的にベルサイユ宮殿とスポンサー契約を結んだ。契約にはルノーが宮殿の修復費を負担する代わりに、ゴーン被告が5万ユーロ相当とされる披露宴のサービスを受けられる取り決めが盛り込まれていた。契約に使う費用はゴーン被告自身が判断できる会計から支払われたとされる。社内調査には限界があるため、検察当局へ同日、通報した、と仏メディアは伝えた。
仏紙レゼコーは19年2月8日、2014年のゴーン自身の60歳の誕生日に、日産とルノーの予算計60万ユーロ(約7500万円)を使って祝った疑いがある、と報じた。14年3月9日、ベルサイユ宮殿で200人が参加する大規模な晩餐会を開いた。公には日産とルノーの自動車連合結成15年を祝う会だったが、レバノンの名士数10人やブラジル、フランスの実業家、政治家など友人が多数出席した。日産からの出席者は数人だった。
この日は自動車連合ができた日ではなく、ゴーンの誕生日だった。提携15周年は3月27日だった。有名なシェフ、アラン・デュカスが腕を振るい、庭園で花火が打ち上げられた誕生会の費用は最低でも60万ユーロとされ、ルノー・日産BVが負担している。庶民感覚から、かけ離れた出費であり、ルノーと日産は適切な出費だったが調べる可能性があると、レゼコーは伝えた。
(文=有森隆/ジャーナリスト)