主君、織田信長を討った謀反人。明智光秀のそんなイメージはここ十数年で見直されるようになり、歴女にも人気になっている。現在放送されているNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では光秀の生涯が描かれている。
3月18日、NHKで『本能寺の変サミット2020』が放送された。光秀はなぜ織田信長のいる本能寺を襲い、自刃に追い込んだのか。司会は爆笑問題。東京大学史料編纂所教授・本郷和人氏を解説に迎え、天理大学准教授・天野忠幸氏、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館学芸員・石川美咲氏、熊本大学文学部教授・稲葉継陽氏、東洋大学講師・柴裕之氏、滋賀県立安土城考古博物館学芸員・高木叙子氏、大山崎町歴史資料館館長・福島克彦氏、三重大学教授・藤田達生氏ら研究者が一堂に会し、さまざまな説を検証した。
俎上に上がったのは、「怨恨説」「イエズス会共謀説」「徳川家康共謀説」「鞆幕府推戴説」「構造改革反発説」「信長暴走阻止説」「四国説」「秀吉陰謀説」の8つ。
ことあるごとに信長からの叱責を受け、足蹴にされ、そのことによって髪の薄い光秀が用いていた付け髷が満座の場で取れてしまうといったこともあり、光秀は積年の恨みを募らせていた。プライドの高い光秀が、ついにそれに耐えられなくなり信長を討った。これが長い間信じられていた「怨恨説」。しかし、そうした個々のエピソードは後世の人によって脚色されたものとして、この「怨恨説」は研究者らに一蹴された。
日本にキリスト教を伝えたイエズス会は信長の信認を得て布教に努め、中国に進出しようとしていた。しかし信長は自分の力を過信し、キリストの神を否定し、やがて自分はその上だと考えるようになった。そのため光秀と共謀して信長を討ったというのが、「イエズス会共謀説」。だが、それを根拠づける資料はイエズス会のほうにしかなく信憑性が薄いとして、研究者全員から否定された。
小説家がよく言う説として紹介された「徳川家康共謀説」は、内容の説明もなかった。最終的に天下を治めた家康が、光秀と共謀していたという説だ。しかし本能寺の変の後、家康は伊賀越えという危険なルートを取って三河国に帰っていて、その途中で兵も失っている。光秀と通じていたなら、そんなことをするはずがない。この説に賛同する研究者はいなかった。
以上、3説は通説として退けられた。
室町幕府最後の将軍、足利義昭と光秀が通じていたというのが、「鞆幕府推戴説」。京都を追われた義昭は、現在の広島県福山市にある鞆に拠点を置いた。毛利氏の庇護下にあるとはいえ、いまだ影響力を持ち天下再興を唱えていたので、これを「鞆幕府」と呼ぶことがある。義昭を追放した信長を討って、上洛を果たすというストーリーで光秀が共謀したという説だ。
ここでは2014年に熊本市内で発見された中世の医学書「針薬方」が披露された。そこには「明智十兵衛尉」として明智光秀の名があり、医学的知識が記されている。武士になる前半生、光秀は医者だったので多方面に人脈があったことが窺えるというわけだ。
刀狩りと太閤検地によって、近世的軍役動員システムを築いたのは豊臣秀吉だが、そのビジョンをすでに信長は持っていた。これに反発して信長を討ったというのが、「構造改革反発説」だ。革新的だったのは誰なのかという議論になる。
兵に対してそのあり方を記した「明智光秀家中軍法」が残されている。それを見ると、寄せ集めの兵をいかに律していたかがわかる。本来は、天皇や朝廷を大事にし、天下静謐を求めていた信長。だが畿内に権力を確立すると、四国攻めを考え出した。戦争を止めることをできない信長を討って、あるべき社会を残そうとしたというのが、「信長暴走阻止説」だ。
2014年に岡山市の林原美術館で「石谷家(いしがいけ)文書」が注目を浴びた。これによって浮上してきたのが「四国説」。四国の統一を目指す長宗我部元親と信長は、もともとは同盟関係にあり、その間を取り持っていたのが光秀であった。三好氏と争って長宗我部は四国統一に近づいた。だが、信長は突然、長宗我部を討つと言い出した。これを阻止するために光秀は信長を討ったのだということが、一連の文書からわかるという。信長の四国出兵の日に、本能寺の変は起きた。研究者の多くがこの説が有力であると首肯した。
信長が没して、秀吉の天下がやってきた。誰が得をしたのかというところから出てくるのが、「秀吉陰謀説」。本能寺の変を知った秀吉の軍は、備中高松城(岡山県岡山市)の戦いの最中であったが、10日間で山城山崎(京都府乙訓郡大山崎町)まで走破し、光秀を討った。この中国大返しの信じられないようなスピード、信長の死の知らせを受けても普通はすぐには信じないはずだから、あらかじめ知っていたのではという疑いも浮かんでくるわけなのだ。しかしそれらは、秀吉の敷いていた情報網の確かさによるものとして説明できる。
最後にスペシャルゲストとして登場したのが、細川護熙氏。第79代内閣総理大臣であり、肥後熊本藩主だった肥後細川家の第18代当主である。肥後細川家初代の細川忠興は本能寺の変の後、光秀から援軍を求められたが喪に服して応じなかった。これに対して「比類なきたのもしさ」と秀吉が書いた書状も公開された。細川家の運営する永青文庫に保管されていたものである。
NHKの番組らしく、研究家たちがさまざまな角度から冷静に議論を進めていたこともあり、インターネット上では視聴者の間から次のように評価する声が多数挙がっている。
「NHKで、『本能寺の変』の真の動機は何だったのかを議論する番組をやっていて面白い」(原文ママ、以下同)
「変な小説家がいなくて、ちゃんと研究者の人たちが話しているので良い」
「NHKで本能寺の変の特集見てた。最近の研究では『同盟を結んで光秀と親しかった長宗我部を攻めようとした信長にキレた説』が有力らしい。今年の大河ドラマに元親アニキが出てくるかもと期待…!」
「NHKの本能寺の変サミット2020見てるけど面白いなあ…というか各方面から散々研究されまくってるのに未だに謀反の理由がはっきりしないミッチー本当に厄介な男(好き)」
「NHKもやるじやん『本能寺の変』 いまなお謎多き、謀反、明智光秀 信長を討つ。さて理由とは何か」
「NHKの本能寺の変サミット面白かった!」
「NHKでやっていた本能寺の変サミットで鞆の浦が出て静かにテンション上がったわたし」
「いや~、面白かったGrinning face with smiling eyes」
「ゲストの細川護熙さん(元総理)、凄いこと仰ったたね」
歴史をさまざまな角度から見直してみるのは、それ自体が楽しいものであり、まるで価値観の異なる現代でも学ぶべきことがある。
(文=編集部)