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“スピードスター”赤星憲広、プロで活躍の原点は春の甲子園での2度のエラーか

文=上杉純也/フリーライター
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現役時代の赤星憲広(「Wikipedia」より)

 本来、3月は選抜高等学校野球大会(センバツ)、すなわち春の甲子園が開催されているはずだったが、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて今年は開催が見送られることとなった。そこで、甲子園好きの読者のために、「春の甲子園にしか出場していないが、その後プロに進み、活躍した選手」を紹介するこの連載。第3回は赤星憲広(元阪神タイガース)。

 昨シーズンのセ・リーグ終盤戦に怒濤の6連勝で3位に滑り込み、見事にAクラスを確保した阪神タイガース。その最大の原動力ともいえるのが、2018年のドラフト1位入団でセ・リーグの新人最多安打記録となる159安打を放った近本光司だろう。さらに近本は、盗塁数も36をマークして盗塁王を獲得。プロ1年目で盗塁王に輝いたのは日本プロ野球史上、近本が2人目という快挙でもあった。

 そして、である。この近本より前に新人で盗塁王に輝いた第1号も、同じ阪神の選手なのだ。01年に39盗塁をマークして新人王も受賞した“スピードスター”赤星憲広がその人である。

 小学生時代の赤星は、実は右打ちだった。それが中学入り、自慢の脚を生かすために左打ちに変更。そしてそのまま高校へ入学する。1992年春のことだった。進学に際し選んだ学校は、地元愛知県の大府高校。当時も今も愛知県の高校野球界には、中京大学附属中京高校、東邦高校、愛知工業大学名電高校、享栄高校という「私学4強」と呼ばれる強豪の甲子園常連校があるのだが、大府は全国的には無名の公立校だった。

 それでも、赤星があえて大府に進学した理由は、「ただ野球のために進学するのではなく、スポーツと勉強の両立が可能だから」と明かしている。大府は赤星の入学以前に夏2回、春1回の甲子園出場を果たしており、県立高でありながら甲子園を目指せるイメージがあったのである。野球強豪校に勝って甲子園へ――。その強い思いを持って進学したのだった。

 そしてその強い思いが早くも結実する。92年秋の新チーム結成時に1年生のなかでただひとりベンチ入りを果たした赤星は、チームの県大会&東海大会優勝に貢献。結果、見事に翌93年の春の選抜第65回大会に出場を果たすこととなるのである。

 その注目の初戦の相手は、駒澤大学附属岩見沢高校(北海道)。赤星は背番号11を背負い、2番セカンドで出場。打っては1安打を放つなど2度出塁したのだが、盗塁は0。のちにプロの世界で大きな武器となる自慢の快足を披露することはできなかった。だが、打撃以上に致命的だったのが、守備だった。なんと1点をリードした3回表に2死二、三塁のピンチを迎えると、逆転につながる手痛いエラーを犯してしまったのだ。

 その後、チームは4回裏に同点に追いつくも、9回表に1点を勝ち越され、2対3で惜敗。赤星のエラーさえなければ勝っていたかもしれなかったワケだ。秋の東海大会王者として周囲の期待も大きかっただけに、ショックも大きかったという。こうして赤星にとって初の甲子園は、ほろ苦い思い出だけが残ることとなった。

プロ野球での活躍の原点は甲子園でのエラー?

 だが、その1年後、赤星にリベンジの機会が訪れる。選抜出場直後の夏は予選で敗退したものの、赤星たちが最上級生となって結成された新チームは見事、秋の県大会を制覇。さらに、続く東海大会でもベスト4に進出したことで、2年連続の春の選抜出場を果たした。

 迎えた94年第66回春の選抜。今年こそ初戦突破したいところだったが、なんと抽選の結果、相手は“東の横綱”で優勝候補の一角に挙げられていた横浜高校(神奈川)になってしまった。何せこの年の横浜には多村仁志(元・福岡ソフトバンクホークスなど)を筆頭にのちにプロ入りするメンバーが5人もベンチ入り。いわゆる“銀河系軍団”で、赤星をはじめ大府ナインは試合前の練習の時点で、その体格や身体能力の違いに圧倒されたという。要は戦う前から完全に相手にのまれてしまっていたのである。

 案の定、試合は横浜に圧倒されてしまう。なんと大府投手陣は横浜攻撃陣に先発全員安打となる19安打を浴び、5回までに毎回得点となる計10点を献上。前半で勝負が決まってしまったのである。肝心の赤星もチームのリードオフマンたるべく1番・ショートで出場したものの、守っては前年の悪夢再び。なんと2つのタイムリーエラーを犯してしまった。打っても5打数1安打2三振に盗塁も失敗と、まったくいいとこなし。打線全体でも横浜が繰り出す3人の投手の継投の前に14三振を奪われる始末であった。結果、3対10での大敗。攻撃、守備、そして走塁とすべてにおいて力の差がありすぎた試合であった。

 こうして、全国レベルの高い壁を痛感させられた赤星は、のちに得点に絡んだ2失策について「あれは技術的なことよりも、気持ちで負けていた。『ボールが飛んできたらどうしよう』と思っているところに飛んできてしまった」と振り返っている。チームを引っ張っていかないといけない立場なのに、自らが足を引っ張る結果となったことで、“試合には強い気持ちを持って臨まなければならない”ことを強く実感させられたという。

 そして迎えた3年最後の夏。県大会1回戦で横須賀高校の前にあっけなく敗退してしまう。こうして赤星の3年間の高校野球生活は幕を閉じたのだった。とはいえ、高校入学時の願いが叶い、2度甲子園の土を踏むことができた。いずれも初戦敗退で、さらに2試合ともタイムリーエラーをするなど、ほろ苦い舞台となってしまったが、その後、大学、社会人で研鑽を積んでドラフト指名される選手にまで成長したのである。

 そしてプロ入り後は、かつて辛酸を舐めた場所で躍動し、03年&05年と2度のリーグ優勝にも貢献。まさに赤星にとってプロで活躍できた原点は、夢舞台で犯した“2つのタイムリーエラー”だったのかもしれない。

上杉純也/フリーライター

上杉純也/フリーライター

出版社、編集プロダクション勤務を経てフリーのライター兼編集者に。ドラマ、女優、アイドル、映画、バラエティ、野球など主にエンタメ系のジャンルを手掛ける。主な著作に『テレビドラマの仕事人たち』(KKベストセラーズ・共著)、『甲子園あるある(春のセンバツ編)』(オークラ出版)、『甲子園決勝 因縁の名勝負20』(トランスワールドジャパン株式会社)などがある。

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