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小早川隆治「日本のクルマづくり~さらなる志・凛・艶・昂を目指して~」

マツダ、ロータリーエンジンで欧州レース参戦の知られざる秘話…貴重な記録の数々

文=小早川隆治/モータージャーナリスト
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『マツダ欧州レースの記録 1968-1970』(三樹書房/山本紘監修、小早川隆治協力、松田信也編著)

 ロータリーエンジン(RE)車による1968~70年の欧州レースへの挑戦はその後のマツダモータースポーツ活動の原点となったが、これまでそれらのレースの歴史をカバーした書籍は皆無に等しかった。

 数年前、三樹書房の小林謙一社長と兵庫県丹波にお住まいの山本紘さん宅をお訪ねした折、山本さんに当時の貴重な資料を見せていただくとともに、「いずれこれらの資料は単なる紙くずになってしまうだろう」というお話を聞き、小林さんともども、ぜひとも後世に語り継いでいかねばならないと感じたことが『マツダ欧州レースの記録 1968-1970』(三樹書房/山本紘監修、小早川隆治協力、松田信也編著)の出版の引き金となった。

 今回は68年のニュルブルクリンク84時間レース、次回は69、70年の欧州レースと2回に分けて本書をご紹介したいが、まず冒頭に国立科学博物館産業技術史資料情報センター長鈴木一義先生の「本書推薦の言葉」の一部を引用させていただこう。

「本書は、ル・マン24時間レース以前の1968年から1970年にかけて、初めてマツダがロータリーエンジンで国際レースに参加した際の詳細な記録である。新興自動車メーカーとして臨んだ欧州での諸レース、その結果ばかりに関心が行くが、本資料中の臨場感に満ちた一行一行からは、その裏で勝敗に関係なく人と車のさまざまのドラマがあったことが伝わってくる。得がたい記録である。本書の出版と貴重な資料を残されていた山本紘氏には心から敬意を表したい」

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アップダウンが激しいニュルブルクリンクサーキットを走行中の19号車
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盛装での集合写真の左端はアドバイザーのテレン氏、外国人ドライバーは前列左からY.ドゥプレ、ジペア、エルデの各氏、蝶ネクタイのエルデ氏の右後ろが山本さん

 以下は、本書のために山本紘さん(マツダにおいて、モータースポーツ担当、ユーノスコスモ開発主査、商品主査室長、マツダ理事などを務められ、2001年に退職後は丹波にお住まい)にお書きいただいた「マツダモータースポーツ活動を振り返る」の一部(小早川が選択と細部修正)だ。

「1962年に東洋工業株式会社に入社し実験研究部に配属されたが、私のグループがモータースポーツ担当となったのが1963年秋、1964年第2回日本GPにむけてはキャロルの準備をしたがスバル360に敗れ、その後はファミリア800に駒を進め、1965年の3回日本GPに備えたが大会中止の事態に。1966年4月のシンガポールGPがマツダの海外レース初戦となった。

 1963年に立ち上がったRE研究部の志士達の艱難辛苦の努力が実り、1967年5月、待ちに待ったRE搭載車コスモスポーツ(L10A)が発表されるとともに、山本健一RE研究部長(当時)から『長距離耐久レースでこの新エンジンの信頼、耐久性を立証することが、REを本物に育て上げることになる』との強い要請が出された。

 先ずはル・マン24時間レースを検討したが、出場するためには大幅改造が必要と分かり断念、ラリーの場合はアクシデントでのリタイヤの確率が高く、RE信頼耐久性立証の意図にそぐわないと敬遠、『マラソン・デ・ラ・ルート』という84時間レースにターゲットを絞った。

 ベルギーのリエージュをスタート、一般道でアイフェル山地を越えてニュルブルクリンクサーキットに入り、そこで84時間の連続走行距離を競い、再びリエージュまで自力走破して“完走”が認められるというイベントだ。走行距離、スピード共に壮大なイベントで、1968年8月のこのレースへの参戦を決定した。

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