
今回のコロナショックでは、近年の日本社会では想像できなかった動きが見られた。もっともインパクトが大きかったのは、多くの国民が政府に対して、個人に対する現金給付を強く求めたことだろう。これは日本社会における会社と労働者の関係が大きく変わったことを示唆している。
これまでの日本社会はすべてが会社単位で構成されていた。会社を守ることが国民を守ることだったが、これは資本主義の国としては珍しい社会形態といってよい。日本では株式会社は株主のものではなく、従業員のものであるという論調もあったが、今回のコロナショックは、会社の所有者が誰なのかについても、最終的な結論が得られたといってよいだろう。
コロナが戦後日本社会の幻想を完全に打ち砕いた
戦後の日本において、経済政策というのは総じて企業を支援するという意味であった。日本は建前上、終身雇用制度だったので(中小企業の現実は異なる)、企業は個人の生活を守る防波堤であり、企業を支援することが政府の仕事であると理解されていた。実際、自身の生活は企業が守ってくれると考え、会社を人生の拠り所としていた労働者はかなりの数にのぼるだろう。
このため政府が立案する経済対策の多くは業界支援策となっており、今回のコロナショックでも政府は当初、従来型の経済政策の実施を検討していた。ところが政府の対策がなかなか進まないこともあって国民の苛立ちは高まり、政府には「なぜ個人に対する給付を行わないのか」という声が殺到するようになった。
こうした批判を受けて政府は当初、年収が大幅に低下した世帯に対する30万円の給付を決定したが、中間層のほとんどが対象に入らないことがわかると、国民のボルテージがさらに上昇。慌てた政府は、急遽、全国民に対する一律10万円の給付に切り換えた。
麻生太郎財務大臣は最後まで一律給付に反対したといわれるが、その理由は2009年に景気対策として実施した定額給付金の評判が悪く、そのイメージをひきずっていたからである。少なくとも当時までは、現金給付についてバラマキと捉える人が多く、政策に対する評価は散々だった。
前回とはうって変わって、今回、現金給付を求める声が殺到した背景には、事態が切迫しているという事情があるのは間違いない。だが同時に、もはや企業は自身の生活を支えてくれる存在ではないと多くの国民が感じ始めていることも大きく影響したはずだ。特に近年、急増している非正規社員の場合、正社員の雇用を維持するための調整弁として使われており、当然のことながら正社員と同じような忠誠心は持ちようがない。
図らずも今回のコロナショックは、会社が個人の人生を守ってくれるという戦後社会のある種の共同幻想を、完全に打ち砕いたといってよいだろう。