現在ではあまり聞かなくなったが、かつては地上の特定の場所に特定の時間帯に行くと、蒸発(行方不明)、テレポーテーション、あるいはタイムトリップといった現象が稀に起こりうると語られてきた。例えば、船舶や航空機が行方不明となったバミューダ三角地帯はその代表であるが、そんな場所においては、特定の時間帯において時空が歪むか、並行宇宙のような別次元・異世界へのポータルがあるのではないかとも推測されてきた。
これから紹介する話は、テレポーテーションには関わっていないが、タイムトリップしたか、並行宇宙を垣間見たのではないかとされる謎の事件であり、欧米では比較的有名な事件である。
1957年10月のある日曜日の朝、15歳の少年ウィリアム・ラング、マイケル・クロウリー、そしてレイ・ベイカーの3人は、イギリス海軍に入隊してまもなく、地図解読の訓練に参加した。地図を頼りに田園地方を4~5マイル(6~8キロメートル)歩んで指定の場所に行き、そこで見たものを基地に戻って報告するという任務だった。指定された場所は、サフォーク州の村カージーにあったが、そこは絵のように美しい景観で知られる、歴史ある村だった。
当日、3人がカージーの村に近づいた時、秋という季節だったにもかかわらず、「そこは青々としていて、春か初夏のように木々は見事な緑色をしていた」とラングは記憶していた。だが、3人が村に入っていくと、不気味なことに、教会の鐘は鳴り止んだ。メインストリートが始まる道を小川が横切っていたが、その脇にいたカモたちはまったく動かなかった。村には静寂が漂っていた。
3人が家々に近づくと、秋の鳥たちの鳴き声も聞こえなくなり、風もなくなった。通り過ぎる木々の葉も揺れ動かなかった。そして、木々は影を落としていないようだった。通りにはまったく人通りがなかった。
その日は1957年の日曜の朝で、イギリスの田舎においては、奇妙なことではなかったのかもしれない。しかし、イギリスでもっとも辺境の村々にあっても、道端に停められた自動車、道路に沿って張られた電話線、屋根の上のアンテナなど、近代的なものがいくらか見られるものだったが、この村にはそのようなものが一切みられなかった。実際、目抜き通りの家々はみなボロボロで、手作りで、木材で縁取られ、時代がかっていた。それはほとんど中世の外観だった。
3人の士官候補生たちは一番近くの建物に歩いて行き、汚れた窓に顔を押し当てた。中をちらりと見てみると、テーブルやカウンターはなく、皮をはがれた牛がまるごと2~3体吊るされていて、所どころ緑色に変色していた。また、緑色に塗られたドアと、小さめのガラスの枠を備えた窓が、一つは正面に、もう一つは側面にあり、汚れていた。3人は信じられない思いで緑色にかびた死体を窓越しにみたことを覚えていた。1957年という時期に、あのような状態での営業を保健所が許すとは信じられなかったのである。
別の家を覗き見てみると、窓はやはり緑がかって汚れていて、誰も住んでいないようだった。壁は粗野な漆喰仕上げで、部屋の中は空だった。少年たちは家具も何も見つけられず、同時代の建物には見えなかった。彼らは怯えて向きを変え、急いでその奇妙な村を後にした。小さな丘に通じる小道のてっぺんを昇りきるまで振り返ることはなかった。その後、彼らは突然もう一度鐘の音を聞き、複数の煙突から煙が上っていたのを目にした。その村に着いた時は、煙を出す煙突など一つもなかったにもかかわらず――。そして、彼らはその異様な感覚から抜け出そうと、数百ヤード走り続けたのだった。
カージー事件の分析
当時、彼らの上官は懐疑的で笑い飛ばしたが、何かとても奇妙なことが起こったと3人は思った。何年も経って、そのグループを率いたスコットランドの少年ウィリアム・ラング(現在はオーストラリア在住)はこのように振り返っている。
「それは、いわばゴースト・ヴィレッジだった。私たちは歩いて時間を遡るようだった。私はカージーでとても強い悲しみと憂鬱の感覚だけでなく、背筋をぞっとさせられるような、見えざる観察者がいる感覚と無愛想な感覚を体験しました。もし私たちが何か質問しようとドアをノックして、誰かが出てきていたら、どのようなことになっていたことか。考えるだけでも恐ろしい」
そして、当時の出来事が忘れられなかったラングは、1980年代になってクロウリーと電話で話し、自分ほどではなかったものの、彼も不思議な体験をしたと覚えていたことを確認した。そして、ラングは過去に自分が読んだ本の著者で、心霊現象研究協会幹部のアンドルー・マッケンジー氏に手紙を書くことにした。
マッケンジー氏は、ラングの手紙に好奇心をそそられて、彼は過去知能力があるのではないかと考えた。すなわち、1957年のカージーを見たのではなく、何世紀も前のカージーを見たこともありうると考えたのだ。
これは決して思いつき程度の考えではなかった。マッケンジー氏はラングと2年間の文通を経て、ラングが見たと証言した建物や景観を確認すべく、カージー出身の歴史家の助けを借りて、地元の図書館に訪問して調査を行っていた。ラングも1990年に渡英して、カージーの村を実際に歩いて、当時の体験を追体験していた。その結果、例えば、ラングが当時見た肉屋の建物は、なおも実際に存在していたが、個人宅となっていたことが判明した。だが、興味深いことに、マッケンジー氏の調査によると、その肉屋の建物は1350年頃に建てられ、少なくとも1790年までは実際に肉屋であり、1957年時点ではすでに個人宅になっていたことだった。
つまり、ラングは1957年にカージーを訪問した際、本来であれば、個人宅を目にするはずだった。にもかかわらず、肉屋を目にしていたことから、やはり中世にまで遡るタイムトリップをした可能性は捨てきれないとマッケンジー氏は考えたのである。
その根拠を支える材料はほかにもあった。まずは季節の突然の変化である。10月に訓練は行われたにもかかわらず、3人はカージーにおいて春から初夏の新緑を目にしていた。また、当時、3人は鐘の音を聞いたにもかかわらず、教会を目にすることはなかった。これは奇妙なことだった。カージーと言えば、塔を備えたセント・メアリー教会がランドマークであり、どこからでもそれが見える。その景観は何百年も変わっていないはずだった。
だが、マッケンジー氏が調べてみると、セント・メアリー教会の歴史は14世紀に遡るが、その建設が一時中断されたことがあった。1348~1349年に黒死病が流行し、カージーの人口は半減していたのである。つまり、その後しばらく、教会の建設は中断し、塔のない背の低い状態が続いた時期があったのである。3人がそんな時代のカージーにタイムトリップしていれば、教会が木々に隠れて見えなくても不思議ではなかったのだった。
マッケンジー氏はさらに年代の特定を考えた。ラングとクロウリーは、村の建物には中世においては珍しい「ガラスをはめた窓」があったことを覚えていた。カージーは羊毛の貿易によって栄えた歴史を持つため、そんな窓を持った建物がその後、次第に増えていったと分析。そして、黒死病の流行から少し経った1420年頃のカージーに3人はタイムトリップしたのではないかと推測したのである。
タイムトリップ説への反論と解けぬ謎
もちろん、このマッケンジー氏の結論には反論がある。まずは、カージーの村に近代的なものが何もなかったと3人が報告した点について。歴史を遡ると、カージーでは、1950年代初期になって初めて電線が引き込まれ、景観保全上、頭上ではなく、道路脇や地下に埋設されたのである。そのため、3人の報告は決して不思議ではないというものである。
次に、カージーの建物にガラス窓が存在したと3人が報告した点について。それに対して、マッケンジー氏は1420年頃であれば村も栄えつつあり、矛盾しないとする見解を示したが、3人の報告では、村は廃墟同然で、家具も存在しなかったとあり、おかしいとするものである。
さらに、肉屋の存在について。1420年代当時、牛肉を食べる習慣も保存する技術もほとんど存在せず、カージーの人口の半分のサイズの村の場合、年間3頭が消費されていただけだという記録がある。仮に年6頭がカージーで消費されていたとして、全体の半分の量の牛肉があの肉屋に、初夏という季節に、冷蔵管理できない状態で吊るされていたことになり、それはありえないとするものである。
つまり、3人の奇妙な体験は、心理的な要因によって生み出されたとすることで説明されるのではないかというのが主流派の反論である。だが、そのいずれも3人の体験を合理的に説明できるような説得力は備えていない。
ちなみに、筆者が最初に思い浮かんだことは、単純に黒死病の流行後、村が廃墟のようになった時期に3人がタイムトリップした可能性である。カージーで電線敷設が遅かった点はタイムトリップの可否に直接影響せず、特別反論にはならない。肉屋での牛肉の件は、豚よりも珍しいものの、現実には西洋では冷涼な洞窟や地下倉庫で食肉を吊るして乾燥保存する方法は古くから発展してきたため、乾燥熟成肉を取り出して店に吊るしたのち、何らかの理由で放置されたものと考えれば、それほど不思議ではない。ただ、ガラス窓の使用は、12世紀から教会のような特別な建築物に使用されるようになったステンドグラスを除けば、確かに早い気もする。
過去にタイムトリップした可能性のほうが理解しやすいが、現実世界と似た別の世界に迷い込んでしまった可能性はどうだろうか。
筆者が思い出してしまうのは、宮崎駿監督の映画『千と千尋の神隠し』である。同作品において、主人公千尋は家族とともにあるトンネルを超えて、テーマパークの残骸のような別世界に迷い込む。ラングは恐ろしくてカージーの肉屋で声をかけることはしなかったが、千尋はさらにその世界に深入りしてしまったがために、まさに異様な体験をすることになった。筆者はそのように現実と似た別世界に入り込んでしまったのではないかと感じてしまうのである。
もちろん、同作品は架空の話である。だが、時間が止まった並行宇宙へ迷い込んだケースと似て、3人の体験に近いリアリティーを感じてしまうのは、筆者だけであろうか。
(文=水守啓/サイエンスライター)