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「偉人たちの診察室」第4回・小栗上野介

精神科医が分析する小栗上野介=ADHD説…有能にして傲慢、生涯に70回余の降格・罷免

文=岩波 明(精神科医)
精神科医が分析する小栗上野介=ADHD説…有能にして傲慢、生涯に70回余の降格・罷免の画像1
江戸時代末期の幕臣、小栗上野介。日本の近代化のために多方面で活躍したものの、1868年新政府軍に捕縛、斬首される。(写真はWikipediaより)

 幕末の政治家、小栗忠順(小栗上野介)は、勘定奉行、外国奉行などの要職を歴任し、その業績も高く評価されている。ただし、こうした点については、あまり一般には知られていない。

 小栗の祖先は、戦国時代からの松平(徳川)家の家臣という古い家柄である。元は松平姓を名乗っていたということから、主家の血縁であり、江戸時代を通して旗本として徳川家に仕えてきた。

 幕末の混乱期、小栗は30代の若さであったが、海外の知見を幅広く受け入れ、フランスと協力関係を結んで横須賀に造船所を設立するなど、明治時代の先駆となった多くの政策を断行した。

 けれども一般に小栗の名前が語られるのは、幕閣としての評価ではなく、いわゆる「徳川埋蔵金」に関連した人物としてである。

 江戸時代の末期、幕府が密かに「復興」のための軍資金を江戸城から運び出し、地中に埋蔵したという「伝説」がまことしやかに伝えられている。その作戦の首謀者が小栗で、幕府の金塊は、彼の郷里に近い赤城山の山麓に埋められている――というのだ。

勘定奉行・小栗が幕府の金を持ち出した?

 1868年4月、勝海舟と西郷隆盛の交渉の結果、江戸城が無血開城となる。その時、維新軍は江戸城内を捜索したが、城内の金蔵はほとんど空だった。ここで疑われたのが、大政奉還の直前まで勘定奉行を務めていた小栗であった。勘定奉行は、今日の財務大臣に相当する職である。

 これに先立つ1868年1月、鳥羽伏見の戦いで敗北を喫した幕府では、主戦論を唱える小栗と、恭順論を唱える勝海舟らが激しく対立していた。だが最終的に将軍徳川慶喜は主戦論を退け、小栗は幕府の役職を解任されてしまう。

 小栗の身を案じて米国に移住を勧める話もあったが、彼はそれを断って故郷に引き上げることとし、領国である群馬県権田村にもどって隠遁していた。ところが、小栗は幕府の金を持って逃げたと疑われた。

 間もなく小栗自身は、中山道を進駐してきた新政府軍により、反乱の恐れがあると捉えられ処刑されてしまう。もちろん小栗自身に反乱を起こす気などさらさらなく、これはまったくの濡れ衣であった。

 一方で小栗の死からまもなく、「江戸から利根川を遡って来た船から、大勢の人夫が大きな荷物を赤城山中へ運び込むのを見た」と証言する者が現れ、幕府の埋蔵金が赤城山の山麓に埋められていると広く信じられるようになる。

 明治の初年から現在に至るまで、多くの人たちによって埋蔵金の発掘が試みられてきた。一般に、この埋蔵金に関する計画は、桜田門外の変で暗殺された大老・井伊直弼により考案され、秘密裡に作業が進められたと語られている。
 
 ただし、小栗自身はこの計画を知ってはいたが、実際の実行者ではなかったと考えられた。

幕末に赤木山麓へ持ち込まれた埋蔵金?

 埋蔵金の研究者でもあったノンフィクション作家の畠山清行によれば、彼自身が大正の末期から昭和初年に現地調査を行ったときには、利根川から大量の荷物が赤城山中に運ばれた現場を見たという村人たちに直接話を聞けたという。

 さらに驚くべきことには、大量の荷物を運んだ人夫たちが、現場を監視していた侍たちによって、全員殺害されて遺体も隠されたという目撃証言も得られたことだった。

 現代になり、赤城山の埋蔵金はテレビ番組の人気コンテンツとして、TBS系のバラエティ番組などで何度か取り上げられたりもした。実際にかなりの発掘作業も行われ人工的な横穴などは発見されているが、埋蔵金そのものの手がかりは見つかっていない。

 畠山は著書の中で、彼が埋蔵金の存在を信じるようになった経緯を次のように述べている。

 現地を訪れた畠山氏は、まず当時の生き残りの70歳以上の老人を訪ねてきいてみたという。すると、彼らは申し合わせたように、「年代ははっきりしないが、幕末の混乱期に、大量の包み、樽、長持ちなどが山麓に持ち込まれ、相当長期にわたって、この付近では見かけたことのない武士、職人、やくざふうの人物などが、ひんぱんに山に出入りしていた」というのだ。

「幕末に、赤木山麓へ大量の物資が運びこまれ、大勢の人間が相当長期間、なにかをしていた」ということだけは、まちがいない事実として浮かんできたのである(畠山清行『日本の埋蔵金』中公文庫)

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1995年に刊行された、畠山清行による著作『日本の埋蔵金』(中央公論社)

優秀で高い実務能力を持つが、非常に傲慢

 小栗上野介が才能ある人物であったことは間違いないが、彼について気になるのは、その人柄についての描写である。小栗に関する同時代の記述を参照すると、多くの文書は、彼の聡明さ、政治力、将来を見通す能力などを賞賛している。さらに敵側にあたる人間も、彼の能力を認めている。

 新政府軍の大将で、前回の本連載で取り上げた大村益次郎は、小栗の戦略を評価し、「幕府でもし小栗豊後守の献策を用いて、実地にやったならば、我々はほとんど生命がなかったであろう」と述べている。

 また早稲田大学の創設者である大隈重信は、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語っている。

 その一方で、小栗は優秀で実務能力も高かったが、傲慢な面が少なからずあったようだ。彼は自説をしっかりと主張することが多く、幕府における上司とはひんぱんに衝突し、昇進と罷免、再度の任官を繰り返した。

 それでも小栗は、幕末におけるもっとも重要な政治家のひとりであったことは確かである。幕末から明治にかけてジャーナリスト、政治家として活躍した福地源一郎(桜痴)は、小栗を幕末の政治家三傑のひとりとして持ち上げたが、その人柄に難のあったことも述べている。

「……その精励は実に常人の企及するところにあらざりなり。その人となり精悍敏捷にして多智多弁、加うるに俗吏を罵嘲して閣老参政に及べるがゆえに、満廷の人に忌まれ、常に誹毀の衝に立てり。小栗が修身十分の地位に登ぼるを得ざりしはけだしこのゆえなり」(福地桜痴『幕末政治家』岩波文庫)

 つまり小栗は、有能で仕事熱心であったが、周囲への配慮がなくずけずけとものを言い、他を罵倒することを繰り返したため、人々からは嫌われて非難の対象となり、十分な地位を得られなかったというのである。

14歳でタバコをくゆらせ高慢ちきに大人と議論

 こういった小栗の性質は、年少の頃から見られたようだ。小栗が弱冠14歳の時のことである。妻の実家である建部家を訪れた。

 小栗は主人と相対し、タバコをくゆらせながら堂々と議論を行い、周囲の人々はその高慢さに驚いたという。

 その後も彼の議論好きは高じたままで、自説を曲げることなく、周囲からは、「天狗のじゃんこ」「狂人」と呼ばれ、変わった男と見られていた。

 このような小栗の様子は、大島昌宏氏の著作(『罪なくして斬らる』学陽書房)では、次のように描かれている。

 意に沿わないことがあると、上司にであれ遠慮なく自分の意見を主張し、容れられないと未練気もなく辞職したり免職になったりすることを繰り返してきた。

……大てい、問題解決のための抜本的正論であることが多いので上司は怖気をふるい、職権を嵩にその意見を封殺しようとする。それでもなお言い募り、口が滑って無能呼ばわりすることもあって、役を免ぜられたり自分から身を引く結果になる。ために、城内の坊主たちが、「またも小栗様のお役替え」と噂するほどになっているのだった。

 また星亮一も、次のような小栗のエピソードを紹介している。

 小栗が人に誘われて隅田川の桜を見に行ったときのことである。桜にはまったく関心を示さず、「川の瀬の水利上の利害はいかがであろう。堰を今少し高くせば有利なのか、あるいは低くせば好いのか、民生のために善悪いかがであろう」と述べて、同伴者を唖然とさせたという(星亮一『最後の幕臣 小栗上野介』ちくま文庫)

生涯において、70回あまりの役職の降格、罷免

 このような小栗の性質を、どのように考えればよいのであろうか。単なる若気の至り、才気煥発な傲慢な人物というだけではないように思える。

 小栗はその生涯において、70回あまりの役職の降格、罷免を受けた。これは異例の扱いであった。

 もっともそのたびに、小栗以外に適任がいないと再度呼び戻されたのだが、何度罷免されても、周囲に対する彼の態度やふるまいは、一向に変わらなかった。

 おそらく、小栗は、自らの言動のコントロールがうまくできない人物だったのである。言いたいことが浮かぶとどのような状況でも口にしないではいられない、あるいは相手が何を話していようと、自分の考えが浮かんだときには、相手を遮ってでも、かぶせて話してしまう。

 おそらくこういったことを繰りかえしていたため、小栗は周囲、特に年長者の不評を買い、何度も役職を罷免される憂き目にあったのであろう。

 おそらく平時であれば、小栗はそのまま単なる変人として、世の中の片隅で静かに暮らしていたに違いない。ところが、彼の生きた時代は、まさに動乱の極みであった。攘夷を取るか、海外と手を結ぶか、さらには幕府に対立する薩長の勢力とどう渡り合えばよいのか。さらには、日本を近代国家にするには、どのような改革が必要か。そうしたことに対応するには、途方もない意識改革と断固たるリーダーシップが求められた。

 こういった事態に、従来の幕閣たちは、まったくどう動いてよいのかわからなかった。このため外国の文化をよく理解しているとともに、行動力のある小栗に何度も出番が回ってきたのである。

「新奇なもの」への関心の大きさと、過剰集中とでもいうべき「突破力」

 小栗のさまざまな政策が的を射たものであったことは、彼の持っていた「新奇さへの希求」が時代の要求にうまくマッチしたことによるのだろう。

 小栗は素早く、海外の文化の「すごさ、質の高さ」を実感し、単にひれ伏してしまうのではなく、それに追いつこうとして幕政の改革を進めた、この点は、他の幕閣にはまったく不可能なことであった。

 前述した造船所の設立に加えて、彼は、銃器の製造、軍政の改革、総合商社の設立など、古い幕府の体質を変革し、明治時代の先駆けになる政策を遂行したのである。

 このような改革を実行できたのは、もちろん小栗の頭のよさがあってのものであることは確かであるが、それを可能にしたのは、前述した「新奇なもの」への関心の大きさと、過剰集中とでもいうべき「突破力」を持っていたからである。

小栗上野介はADHD的な特性を持つ人物

 発達障害の主要な疾患の一つが、ADHD(注意欠如多動性障害)である。ADHDは、不注意・集中力の障害と多動・衝動性を主要な特徴としているが、小栗においても見られる「衝動性のコントロールができない」点と、「新奇さへの希求」「危険を好む特性」は、ADHDに特徴的な性質である。

 小栗に「不注意・集中力の障害」が見られたという記録は残っていないが、彼がADHD的な特性を持った人物であったことは確かであろう。現代においても、いわゆる「起業家」には、ADHDの気性を持っている人物が少なくない。例を挙げれば、楽天の三木谷社長は、自らADHD的な特性を持っていることを明らかにしている。

 もし小栗がもう少し自己コントロールができる人物であったのであれば、歴史は大きく変わったものとなり、明治維新は成立せずに徳川家を盟主とした新体制が成立し、小栗はその中心にいて、多くの新しい事業を成功させていたかもしれない。

(文=岩波 明)

岩波 明/精神科医

岩波 明/精神科医

1959年、神奈川県生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。都立松沢病院などで精神科の   診療に当たり、現在、昭和大学医学部精神医学講座教授にして、昭和大学附属烏山病院の院長も兼務。近著に、『精神鑑定はなぜ間違えるのか?~再考 昭和・平成の凶悪犯罪~』(光文社新書)、『医者も親も気づかない 女子の発達障害』(青春新書インテリジェンス)、共著に『おとなの発達障害 診断・治療・支援の最前線』(光文社新書)などがあり、精神科医療における現場の実態や問題点を発信し続けている。

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