過去最多の22人が立候補した、東京都知事選挙。今回も個性的な候補者が並んでいるが、過去の立候補者にもユニークな人物が多かった。
内田裕也
昨年3月17日に亡くなった内田裕也は、1991年に都知事選に立候補している。晩年は樹木希林の40年以上別居中の夫として認識されていたむきのある内田だが、ロックンロールシンガーであり、『コミック雑誌なんかいらない!』『魚からダイオキシン!!』『水のないプール』などの映画で主演するなど俳優としても活躍した。
1977年には大麻取締法違反で逮捕。1983年にはウドー音楽事務所で、「外国人ばかり使うな!」と包丁を振り回しながら叫び、銃刀法違反で逮捕。2011年には、交際していたキャビンアテンダントにストーカーし、強要未遂と住居侵入の罪で原宿署に逮捕された。内田は自らの口癖である「ロッケンロール!」そのものの破天荒な人生を送ってきた。
内田裕也の政見放送は、ジョン・レノンの曲『パワー・トゥ・ザ・ピープル』の独唱から始まり、「マイネームイズ ユウヤウチダ」と英語での自己紹介が始まった。その途中で「自分はフランス語も流暢に喋る」と英語で言ってから、フランス語での話が続く。最後はロックバンド「頭脳警察」の曲『コミック雑誌なんか要らない』の独唱。「ラブアンドピース トウキョウ」の言葉で締めくくられた。
内田は5万4654票を得て、16名の候補者のうち5位だった。
外山恒一
2007年に立候補した、外山恒一も政見放送が話題になった。アナウンサーが「外山恒一36歳。反管理教育運動を出発点に、異端的極左活動家となり、いまどき政治犯として2年投獄され、現在に至る。反体制知識人」と経歴を紹介。外山は「こんな国は滅ぼせ」「私には建設的提案などひとつもない」「諸君の中の多数派は私の敵だ」「少数派の諸君、今こそ団結して立ち上がらなければならない」「選挙で何かが変わると思ったら大間違いだ」「選挙なんか多数派のお祭りでしかない」と語った。立候補者でありながら、選挙を否定してみせたのだ。
筆者は外山とカラオケに行ったことがあるが、彼の歌のクオリティの高さに舌を巻いた。外山はストリートミュージシャンで稼いで、ファシスト政党「我々団」を結成するなど、さまざまな活動を行っているのだと聞いた。『最低ですかーっ!—まったく新しい政治犯 外山恒一語録』(不知火書房)、『良いテロリストのための教科書』(青林堂)、『全共闘以後』(イースト・プレス)など著書も多い。
外山は1万5059票を得て、14名の候補者のうち8位だった。
赤尾敏
1959年、1963年、1967年、1971年、1975年、1979年、1983年、1987年と、8回も都知事選に立候補しているのは、大日本愛国党総裁であった赤尾敏(1990年に逝去)。最初の立候補の時に60歳、最後が88歳の時であった。
赤尾は戦中の1942年の翼賛選挙で当選し、帝国議会議員になっている。その当時は、反ソビエトの立場から、アメリカとの戦争に反対する反戦演説を行っていた。赤尾が大日本愛国党を結成したのは、戦後の1951年。銀座数寄屋橋にて街宣車の上で、赤尾が毎日行う辻説法は風物になっていた。著書には『憂国のドン・キホーテ』(山手書房)などがある。
1987年の政見放送では「当選なんかしやしないんだから、こんなバカな選挙。ムチャクチャなんだから。なんで立候補するかと言ったら、立候補して、眠っているバカたちに教えるためだ」「愛国党を暴力団のように思っているかもしれないが、そうじゃねえんだ。社会党や共産党よりも偉大な精神を持ち、戦争前も戦争中も戦後も一貫してやってるんだ」などと語った。
赤尾は1971年では1万458票獲得し、13名の候補者のうち3位にまで迫った。最後の立候補であった1987年では、2万1211票を獲得し11名中5位だった。
太田竜
革命的共産主義者同盟(現在の中核派、革マル派など極左団体の母体)の創始者の1人である、太田竜(2009年に逝去)が立候補したのは、1987年。組織が分裂し、新たな組織をつくっては除名されたり脱党したりを、太田はくり返した。その著書『辺境最深部に向って退却せよ!』(三一書房)は、三菱重工をはじめとした連続企業爆破事件を1974年に起こした、東アジア反日武装戦線に思想的影響を与えた。
太田はその後、環境保護活動家に転身した。都知事選立候補では、自ら結成した「日本みどりの連合」が支持母体だった。政見放送では「みなさんこんにちは。私は東京都知事に立候補した日本みどりの連合の太田竜です。知りたい方は日本みどりの連合にご連絡ください」とだけ語り、アナウンサーによる経歴紹介を含めても1分に満たなかった。
太田は1万8564票を得て、11人中6位であった。
東郷健
1979年、1983年、1987年、1991年と4回、立候補したのは、東郷健(2012年に逝去)。同性愛者であることをカミングアウトし、ゲイバーを経営したり、ゲイ雑誌を発刊。レズビアン、ゲイ、障害者などへの差別をなくすことを目的とする、雑民党を結成した。東郷は国政選挙にも何度も挑戦。宣伝カーから「●、●の東郷健がまいりました」と叫び、道行く人を驚かせた。
国政選挙も含めて政見放送では「●のどこが悪い。●のどこが恥ずかしい。男が男愛してなぜ悪い。女が女を愛してなぜ悪い。恥ずかしいのは自分に嘘をついて生きることや。恥ずかしいのは人を愛されへんということや」「きみたちのスカッドミサイルを30世紀に向かって放射精よ」「アングロサクソンのカムカムから日本人のイクイクにしなければならない」などと語った。
都知事選で東郷の獲得票が最も多かったのは1983年で、6392票。12人中7位であった。
ドクター中松
ドクター・中松(中松義郎)は、1991年、1999年、2003年、2007年、2011年、2012年、2014年と7回立候補している。中学時代に灯油ポンプを発明した中松は、底が板バネになっていて高くジャンプできる「フライングシューズ」、男女ともに性感度が3倍になるという香水「ラブジェット」、スマートフォンを手の甲に固定できる「スマ手」などを発明している。中松はフロッピーディスクの発明者と思われていることも多いが、これはIBMが独自に開発したもののようだ。
何度も立候補する理由を中松は、2014年の政見放送で、終戦時の対米和平交渉を行った藤村義朗海軍中佐から「君がリーダーになって日本を復興させてほしい」と言われたから、それに従って生きてきたからだと語っている。徳洲会グループからの不透明な借入金問題を追及されて、猪瀬直樹知事辞任を受けての、2014年都知事選。中松は自分がクリーンである理由を、直参旗本の家系であるからと説明している。原子力発電に変わるエネルギーの発明についても言及した。
6月26日で92歳の誕生日を迎えるドクター・中松は健在だ。新型コロナウイルス対策に没頭していた模様。アルコールによる除菌は危険だとして、「NAKAMAGIC(なかマジック)ウォッシュ」を発表した。今回の都知事選への立候補は見送ったようだ。
中松が最も多く票を獲得したのは2003年で、10万9091票。5人中4位であった。
マック赤坂
国政選挙や大阪市長選にも立候補しているマック赤坂は、2011年、2012年、2014年、2016年と4回、都知事選に立候補している。京都大学農学部卒業後、伊藤忠商事に勤めた後、貿易会社を設立、民間セラピスト、美容研究家、一般財団法人スマイルセラピー協会会長、スマイル党総裁である。
恒久平和と弱者救済を掲げるスマイル党はマニフェストに、「教育革命!!」「うつ病革命!!」「接客革命!!」「恋愛革命!!」「税制革命!!」「選挙革命!!」「議員・公務員革命!!」「幸福革命!!」の8大革命を挙げている。
2014年の政見放送では、タンクトップに天使の輪と羽根を付けたコスチュームで登場。「テレビの前のみなさん、スマイル! マック赤坂は東京都民を救うためにエンジェルになってやって参りました。スマイルセラピーは何かと言いますと、スマイルをメイクすることであなたの外見力をアップして、心の持ち方はマイナスからプラス、ネガティブからポジティブに切り替えるのがスマイルセラピーです」と語った。
それまでもさまざまなコスチュームで政見放送をしていた、マック赤坂。2016年もどんな政見放送をするのだろうとマニアたちは期待したが、普通の背広姿だった。
赤坂が最も多く票を獲得したのは2016年で、5万1056票。21人中6位だった。ちなみに赤坂は昨年4月、東京・港区議会選挙で当選し、議員になるという悲願を果たした。
こうして振り返ってみると、選挙というのは、誰が勝つかだけが問題ではないことに気づかされる。今回の都知事選で、候補者たちが何を語るのか、耳を傾けたい。