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信長と横死した森蘭丸の壮絶な血筋、父も兄も討ち死に…本能寺の変後、子孫は赤穂藩主へ

文=菊地浩之
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江戸時代末期に活躍した浮世絵師・歌川国芳が描いた、森蘭丸。諱は成利(なりとし)とも長定(ながさだ)とも。(写真:アフロ)

森蘭丸、『麒麟がくる』になぜこれまで出てこなかったのか?

 NHK大河ドラマ『麒麟がくる』に森蘭丸(もり・らんまる)が登場した。

 過去の大河ドラマでは、ウエンツ瑛士、瀬戸康史などが演じた、いわばイケメン俳優の登竜門(?)で、今回、森蘭丸を演じるのも板垣瑞生というなかなかのイケメンなのだが、しかし今回の『麒麟がくる』に限っていえば、「そうか、そういえば。信長の近臣といえば森蘭丸だよね~。なんで今まで出てこなかったんだろう?」といった感が強い。

『麒麟がくる』では、尾張以来の信長家臣の登場が少ない。柴田勝家、佐久間信盛、羽柴秀吉くらいだろう。考えてみると、信長家臣が主人公なのに、丹羽長秀すら出ていない大河ドラマは異色だろう。

「尾張以来の信長家臣」と書いたのだが、森蘭丸は(おそらく)尾張生まれではない。隣国美濃出身である。

 森家は清和源氏の末裔で、先祖が相模国愛甲郡森に住んでいたため、森を苗字とした(なお、この地は毛利とも書き、毛利元就で有名な毛利家の苗字もこの地に由来する)。その子孫が美濃国羽栗郡蓮台(れんだい)村に移り住み、美濃齋藤氏に仕えたという。現在でいうと岐阜県羽島郡笠松町田代(でんだい)を指す。木曽川と長良川に挟まれ、木曽川を境に愛知県一宮市に隣接する土地である。木曽川は氾濫が多く、時代によって蛇行し、流域が東西に移動していたので、森家の居住地は尾張か美濃か曖昧な土地だったと思われる。

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NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、板垣瑞生(20歳)が森蘭丸を演じた。イケメン俳優の登竜門なだけあって(?)、やはり美しい顔立ち。(画像はNHK『麒麟がくる』公式サイトより)

信長に仕えた森蘭丸の父、森可成は、浅井・朝倉連合軍との戦いで討ち死にす

 蘭丸の父・森三左衛門可成(もり・さんざえもん・よしなり)はもともと美濃斎藤家に仕え、弘治年間(1555~58年)には信長に転仕していたらしい。斎藤道三(『麒麟がくる』で演じたのは本木雅弘/以下、『麒麟がくる』での演者を「演」と表記))が子の斎藤義龍(演:伊藤英明)に討たれたのが弘治2(1556)年4月なので、道三に味方してやむなく信長の下に駆け込んだのかもしれない。

 可成は永禄8(1565)年に美濃国可児(かに)郡の烏峯(うほう)城を与えられ、兼山(かねやま)城(岐阜県可児市兼山町)と改称した。兼山城は当時信長の居城だった小牧城(愛知県小牧市)の北側に位置し、東美濃攻略の拠点ともいうべき場所に位置する。その2年後、稲葉山城が落城し、美濃は信長の掌中に入った。

 永禄11(1568)年10月に信長が上洛すると、森可成は柴田勝家・蜂屋頼隆(はちや・よりたか)・坂井政尚(さかい・まさなお)と共に三好軍の城を攻め落とし、柴田らと共に京都の政務にあたった。

 元亀元(1570)年4月に信長が越前の朝倉討伐に失敗し、追放したはずの元近江半国守護・六角承禎(ろっかく・じょうてい)が南近江で挙兵すると、信長は主要部将を近江に分封。森可成は南近江の宇佐山(うさやま)城・志賀城(滋賀県大津市)の守将となった。

 同元亀元年8月、信長は三好の残党らを殲滅するため、摂津の野田・福島(大阪市西部)に出陣。ところが、背後の石山本願寺(大坂城のあたり)が叛旗を翻し、苦戦を強いられた。しかも、浅井・朝倉連合軍が本願寺の挙兵に呼応して3万の兵を率い、近江坂本方面に出陣した。

 対する宇佐山城の守兵は森可成と信長の弟・織田信治らわずか3000。可成は勇猛果敢に城から打って出て緒戦に勝利したが、しょせんは多勢に無勢で討ち死にを遂げた。享年48。

 信長は三好・本願寺との戦いを切り上げて、京都に退陣。すぐさま近江に打って出た。この時、浅井・朝倉連合軍が比叡山に退却。比叡山の焼き討ちに繋がった。

 そのあと近江坂本を任されたのが明智光秀である。『麒麟がくる』で光秀は、道三に味方して美濃を追われた。道三に味方して斎藤家を離反→信長に仕えて京都で行政→近江坂本を任されるという光秀のルートは、森可成と似通った人生といえなくもない。シンクロさせたら面白かったかもしれない。

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森一族の家系図。蘭丸は6男3女の三男で、四男の坊丸、五男の力丸、六男の千丸も、同じく信長の小姓として仕えた。

6男3女の三男だった森蘭丸、15歳で信長に仕え、18歳にて5万石の城主、そして本能寺の変へ

 可成が討ち死にすると、次男の森武蔵守長可(もり・むさしのかみ・ながよし)がわずか13歳で森家の家督を継いだ。長男の森伝兵衛可隆(もり・でんべえ・よしたか)は父の討ち死にに先んじて、元亀元(1570)年4月に手筒山合戦で討ち死にしていたからだ(享年19)。父・長兄を失った森兄弟に、信長は最大限の配慮を示したという。

 蘭丸は6男3女の兄弟だった。

 森蘭丸は三男で、実際は「乱丸」と書き、諱は成利(なりとし)とも長定(ながさだ)ともいわれる。蘭丸は信長の小姓として仕え、秘書のような役割を担っていたらしい。織田家臣団の研究家・谷口克広氏によれば、蘭丸が信長に出仕しはじめたのは天正7(1579)年、15歳の時だったという。にもかかわらず、同年4月に信長が摂津の部将へ褒賞を与える際の使者という大役を与えられている。

 また、蘭丸には逸話が多く伝わっている。信長が爪を切って、蘭丸にその爪を捨てよと命じたが、なかなかその場を立ち去ろうとしない。信長が理由を尋ねると、「爪が一つ足りませぬ」と答えた。信長は自分の袖に爪が落ちていたのを見つけ、蘭丸の念の入った仕事ぶりを褒め讃えたという逸話が特に有名である。

 ほかにも、ミカンを運んでいた際、信長に「それでは倒れるぞ」と注意されると、信長の見立てが正しいことを立証すべくわざと倒れるなど、蘭丸の細かい性格や信長への忠臣ぶりが伝えられている。

 蘭丸の弟、四男の森坊丸長隆(もり・ぼうまる・ながたか)、五男の森力丸長氏(もり・りきまる・ながうじ)、六男の森千丸(もり・せんまる/のちの忠政・ただまさ)も、同じく信長の小姓として仕えた。

 一方、次兄の長可は、信長が嫡男・信忠に家督を譲ると、他の東美濃の諸将と共に信忠下に配属された。天正10(1582)年2月に信忠を総大将とする甲斐武田攻めでは、「鬼武蔵」と呼ばれる猛将ぶりを発揮。3月に武田家が滅亡すると北信濃4郡20万7900石を与えられ、海津(かいづ/長野県長野市松代)城主となった。

 そして、蘭丸が兄・長可のあとを受けて、18歳で美濃兼山城5万石の城主となった。

 しかし、同天正10年6月2日に本能寺の変が起き、蘭丸と2人の弟(坊丸、力丸)は討ち死にした。末っ子の千丸は兼山城の母の許で謹慎中だったので難を逃れた。

そして末っ子の森千丸忠政だけが生き残り、わずか15歳で森家の家督を継ぐ

 本能寺の変が起きた時、次兄・長可は越後上杉家と対峙しており、すぐさま撤退して兼山城に戻った(中部圏の人間でないとピンとこないが、長野県と岐阜県は隣県である)。

 本能寺の変後、長可は秀吉についた。義父・池田恒興(つねおき)が秀吉に丸め込まれたからである。天正12(1584)年、秀吉と家康が対立し、小牧・長久手の合戦が起こると、義父・恒興は陽動作戦で家康軍に奇襲を掛けると発案。しかし、戦巧者の家康はその動きを察知し、奇襲軍を迎え撃った。ドッキリを仕掛けているつもりが、逆ドッキリをかけられ、池田・森軍は大混乱。森長可は討ち死にを遂げた。出陣に際して、娘は武士ではなく医者に嫁がせるようにと遺言したことで知られている。

 長可が討ち死にすると、森兄弟で唯一生き残った末男の森千丸忠政が、わずか15歳で家督を継ぎ、兼山城主となった。

 そして、秀吉の死後、慶長5(1600)年2月に家康によって兄の遺領・北信濃四郡13万7500石を与えられて川中島城主となった。関ヶ原の合戦の7カ月前のことである。無論、関ヶ原の合戦では家康についた。慶長7(1602)年12月に備前岡山藩主・小早川秀秋が死去すると、翌慶長8年2月に忠政は美作津山藩18万6500石に転封となった。

 忠政の男子が相次いで死去したため、外孫の森長継(ながつぐ)を2代藩主とした。ところが、元禄10(1697)年に長継の九男で5代藩主の森衆利(もろとし)が発狂して改易されてしまう。森長継がまだ存命していたため、長継には改めて播磨西江原藩2万石が与えられた。あとを継いだ長継の八男・森長直(ながなお)が、宝永3(1706)年に播磨赤穂に居城を移し、子孫は赤穂藩主として同地を領した。

 かくして、一時は20万石をも領していた森家は、最終的に播磨赤穂藩2万石の大名に収まった。それから考えると、蘭丸が18歳で5万石というのは、やっぱり大出世だったと思うのである。

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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