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『青天を衝け』で渋沢栄一を怒らせたばかりに断絶?埼玉県の岡部藩・安部家の悲しい末路

文=菊地浩之
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NHK大河ドラマ『青天を衝け』では、理不尽な岡部藩の代官に激怒する渋沢栄一が描かれているが、これは実話で有名な逸話。ところで岡部藩って何?(画像はNHK『青天を衝け』公式サイトより)

岡部藩は「岡部家の藩」ではなく、「岡部(埼玉県深谷市岡部)にある藩」

 NHK大河ドラマ『青天を衝け』第4話では、岡部藩の代官(演:酒向芳)の理不尽な要求に、渋沢栄一(演:吉沢亮)が激怒する様が描かれる。これは実話で、渋沢栄一の伝記のなかでも特に有名な逸話である。しかしながら、岡部藩ってなんなのかは、意外に書いたものを見ない。岡部藩ってなんだ?

 岡部という大名もいるのだが、岡部藩は岡部家が治めていたわけではない。岡部(埼玉県深谷市岡部)にある藩で、そこを治めていたのは譜代大名の安部家である。

駿河・今川家の家臣から徳川家に仕え、家康の国替えにともない、のちの渋沢栄一の生地も賜る

『青天を衝け』には、老中・阿部正弘(あべ・まさひろ)が出てくるが、岡部藩の阿部家とはまったくの他人。安部と書いて、江戸時代は「あべ」と読んでいたらしいのだが、少なくとも明治維新後には「あんべ」と変えている。

 信濃(しなの/長野県)の諏訪(すわ)氏の子孫が駿河(するが/静岡県東部)の安倍谷に移り住んで安部を称し、駿河今川家の家臣となった。安倍谷なら、安部じゃなくて、安倍だろうと思うのは現代人で、明治以前日本は当て字が横行し、そんな細かいことは気にしなかった(おそらくその頃に姓名判断なんか始めてもサッパリ流行らなかっただろう)。

 桶狭間の合戦で今川義元が討ち取られると、今川家は斜陽化し、今川領は東の武田信玄、西の徳川家康の草刈り場になってしまう。信玄は調略が得意で、駿河に攻め込んだ際にはほとんどの今川家重臣が内応し、義元の子・今川氏真(うじざね)は這々の体(ほうほうのてい)で、遠江(とおとうみ/静岡県西部)掛川城に落ち延びた。

 しかし、安部元真(もとざね)は今川家臣として裏切ることなく、最後まで忠義を尽くした。氏真が家康に降ると家康の家臣となり、武田家との攻防で武功を挙げた。

 その子・安部信勝も小牧・長久手の合戦などで戦功を挙げ、家康の従姉妹を妻にもらった。

 天正18(1590)年に家康が関東に国替えになると、信勝は武蔵国榛沢郡(むさしのくに・はんざわぐん/埼玉県)、および下野国梁田郡(しもつけのくに・やなだぐん/栃木県)で計5250石を賜った。

 栄一が生まれた血洗島は武蔵国榛沢郡なので、栄一が生まれる250年前から、安部家はその一帯を治めていたことになる。ちなみに、栄一の先祖が甲斐国(かいのくに/山梨県)渋沢村から血洗島に入植したのも、その頃だという。

安部家、ついに大名になるも、埼玉県、愛知県、大阪府などに領地が点在しすぎる事態に

 信勝は1万石未満だったので、大名ではなく、旗本だった。

 その子・安部信盛(のぶもり)は順調に出世し、寛永13(1636)年に三河国八名郡(みかわのくに・やなぐん/愛知県)に4000石を加増された。惜しい! あと750石で1万石。大名なのに。

 そして、慶安2(1649)年に大坂定番(おおさかじょうばん)に任ぜられ、摂津国豊島・川辺・能勢・有馬(せっつのくに・てしま・かわべ・のせ・ありま/大阪府・兵庫県の一部)4郡にて1万石を加増された。これでやっと大名になったわけだ。

 その後、安部家は、歴代藩主が弟に領地の一部を与え、幾つかの分家を興す一方、新たに三河国宝飯郡(ほいぐん/愛知県)に3000石、丹波国天田・何鹿郡(たんばのくに・あまた・いかるがぐん/京都府)に2000石を加増され、都合2万200石を領することになった。

 大名というと、加賀百万石みたいに1カ所にドンと何万石かを与えられ、天守閣そびえる城がデーンと鎮座する――といったイメージがあるのだが、実際は何カ所かに領地が点在していた。また、すべての大名が城を持っているわけではなく、陣屋といって、簡単にいえば、大きなお屋敷を住まいとする大名も少なくなかった。

 とはいうものの、安部家の場合、領地があちこちと点在しすぎる。お城なんか持つような感じではなく、本拠地・岡部と三河の半原(はんばら/愛知県新城市)・摂津の桜井谷(さくらいだに/大阪府豊中市)にそれぞれ陣屋を持っていた。石高では岡部より三河や摂津のほうが多い上に、信盛から三代にわって大坂定番に任じられ、どっちかといえば、摂津の陣屋のほうがいいなぁという感さえあった。

“忠臣蔵”の影響で大坂定番への就任を諦め、安部家はやっと岡部を本拠と定める

 信盛の曾孫・安部信峯(のぶみね)の代になって、やっと岡部を本拠として腰を落ち着けようということになった。

 しかし、この信峯、あやうく家督を相続できない事態に追い込まれる。

 父親が元禄14(1701)年3月8日に死去して、さぁ家督相続だという、その6日後に従兄弟の浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)が江戸城松の廊下で刃傷事件を起こしてしまったのだ。

 信峯と長矩は母親同士が姉妹なのだが、その弟(つまり2人の叔父)も過去に増上寺で刃傷事件を起こして改易されているのだ。幕府首脳じゃなくても、「ヤバいんじゃねぇ?」って思うよね。信峯は連座ということで江戸城への出仕を止められ、最悪、お取りつぶしという可能性もあったのだが、結局、信峯自身に罪はないと認められ、3カ月後に家督相続が許された。

 おそらく、信峯は家督相続早々にミソがついたから、曾祖父以来、世襲していた大坂定番になることを諦めたのだろう(実際、なれなかったのだが)。そうなりゃあ、摂津や三河に行く必要もないよね――と思ったのかどうかはわからないが、宝永2(1705)年に岡部を本拠として整備した。

 ちなみに、安部家から再び大坂定番が出たのは、信峯の曾孫・安部信允(のぶちか)に至ってである。実に70年ぶりのことだった。

殿様・安部信宝は渋沢栄一の1歳年上、24歳の若さで死去し栄一の人生とは交わらず

 さて、渋沢栄一に話を戻そう。当時の藩主は安部信宝(のぶたか)。栄一より1歳年上である。天保13(1842)年に父親が死去して、わずか満3歳で家督を相続。『青天を衝け』で栄一がわんぱくぶりを発揮していた頃、信宝はすでに殿様だったのだ。果たして、どちらが幸せだったのかはわからない。

 そしてこの年、岡部藩は高島秋帆(たかしま・しゅうはん/演:玉木宏)を罪人として預かることになった。秋帆は当代随一の洋風兵学者で、軍備改革を志す諸藩は密かに教えを請いに来たらしい。信宝も秋帆を丁重に用いて軍備の刷新を行った。

 信宝は嘉永7(1854)年に15歳で日光祭礼奉行、安政5(1858)年に19歳で大坂加番、そして文久元(1861)年に22歳で皇女・和宮(かずのみや/演:深川麻衣)が江戸に下向する際の警護を命じられる。ホントか? と思うような若年での登用で、心労もあったに違いない。文久3(1863)年に24歳の若さで死去。ついぞ、栄一の人生と交わることはなかった。

幕末・明治の安部家は養子続き、“日本初の医学博士”の子の代でついに途絶える

 信宝には子がなかったので、まったく血縁のない米倉家から養子・安部信発(のぶおき)を迎えた。なお、幕末維新では岡部藩は官軍につき、明治元(1868)年に三河半原に本拠を移転している(なので、安部家を岡部藩ではなく、半原藩と記している書籍もある)。

 その信発の養子・安部信順(のぶまさ)子爵にも子がなく、まったく血縁のない池田謙斎(けんさい)の次男・安部信明(のぶあき)を夫婦養子として迎えている。

 池田謙斎は越後長岡藩士の子として生まれ、幕府御殿医の養子となって、明治維新後にドイツに留学。陸軍軍医総監、侍医を歴任。日本初の医学博士となり、男爵に列した。優秀な人物であることは人後に落ちないが、大名華族が養子を迎える際には他の大名・公家の子弟というのが一般的であり、かなり珍しい事例である。しかも、信明の子の代で安部家は絶えている。

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安部家の家系図。幕末・明治の安部家は養子を迎え入れるも、“日本初の医学博士”の子の代でついに途絶えてしまった。
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NHK大河ドラマ『青天を衝け』で岡部藩代官を演じているのは、遅咲きの俳優、酒向芳(62歳)。あまりに憎らしい“悪代官”ぶりがネットで話題になった。確かに悪そうな顔!(画像はNHK『青天を衝け』公式サイトより)

渋沢栄一が支援していれば、安部家は途絶えることはなかったのではないか

 渋沢栄一が安部家を支援していたら、また違ったことになっていただろう。

 明治維新後の旧大名家は、かつて藩士・領民だった人物を顧問や相談役に招いて、政治・経済的な指南を受けることが多かった。たとえば、総理大臣・加藤高明は旧主尾張徳川家の財政再建に尽くしたことで知られている。しかし、栄一が安部家の顧問を務めたという話は聞いたことがない。

 栄一は家督を甥に譲って、自らは独立した家を興した徳川家家臣であり、安部家の領民だとは考えていなかったようだ。また冒頭に述べたように、安部家に好感を持っていたとは思えないので、たとえ依頼されても断ったのではないか。

 その一方で、栄一は徳川旧臣として、明治維新後の徳川家に対する支援を惜しまなかった。栄一はいくつもの会社を立ち上げたが、それら会社の戦前の大株主には徳川宗家や徳川慶喜の子どもたちが名を連ねている。栄一が徳川家の資産運用を考えて指示したのであろう。

 あの時、代官が横柄な態度を取らずに、もうちょっと情けをかけていればねぇ。まさに「情けは人のためならず」な話である。

(文=菊地浩之)

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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