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成功はこうやって手に入れろ!「令和のヒットメーカー」の半生記(2)

春水堂、日本上陸の舞台裏…タピオカブーム仕掛け人の苦闘

文=編集部
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春水堂、日本上陸の舞台裏…タピオカブーム仕掛け人の苦闘の画像1
『なぜ、倒産寸前の水道屋がタピオカブームを仕掛け、アパレルでも売れたのか?』(フォレスト出版/関谷有三)

 飲食業界における一大ブームとなった「タピオカミルクティー」。アパレル業界において異例の大ヒットとなった「スーツに見える作業着」。このまったく異なる2つの分野の事業で大成功を収め、「令和のヒットメーカー」という異名を持つオアシスライフスタイルグループ代表取締役CEOの関谷有三氏の原点にあるのは、「水道屋」である。

 では、なぜ関谷氏は水道、飲食、アパレルという3つの異なる分野で、次々に事業を成功させることができたのだろうか。その成功の原理と法則がつづられた『なぜ、倒産寸前の水道屋がタピオカブームを仕掛け、アパレルでも売れたのか?』(フォレスト出版刊)をのぞくと、関谷氏の半生は挑戦に次ぐ挑戦であり、人の心を揺さぶる強い信念を持っていることが感じられる。

 4回にわたるこの連載を通して、関谷氏の軌跡をたどる。第2回は、日本で水道事業を成功させた関谷氏が次に向かった場所、台湾からストーリーが始まる。

春水堂のタピオカミルクティーとの運命の出会い

 台湾――。日本からの旅行客も多く馴染みの深いこの地で、関谷氏は水道事業のアジア展開を進めるために何度も視察を重ねる。あるとき、帰国の便に乗るまでの間に、空港の出国カウンター近くの店のとある飲み物を口にした。

 それが、タピオカミルクティーとの運命の出会いだった。

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『なぜ、倒産寸前の水道屋がタピオカブームを仕掛け、アパレルでも売れたのか?』(フォレスト出版/関谷有三)

 あまり甘いものを口にしない関谷氏だったが、飲んでみた途端、おいしさが口の中に広がり、感動が押し寄せた。そのお店の名前は「春水堂」。さっそく次の視察で台中の本店に向かい、風格で厳かな雰囲気をまとう建物に入った。その瞬間、関谷氏は衝撃を受け、頭の中にはっきりとした映像が広がった。

 それは、自分が春水堂を日本中で展開しているシーンだった。もはや、これは理屈ではない。それをするしかなかった。

 しかし、そう簡単に物事は進まない。春水堂は台湾の国民的人気カフェでありながら、サービスの質を保つために「海外には絶対に出ない」というポリシーがあった。関谷氏の魂がいくら「これをやりたい」と叫んでも、オーナーに会う手立てはなかった。

 水道事業のために訪れていた台湾だったが、月3、4回のペースで春水堂に通った。すると、同じ年頃の男性店員と仲良くなった。そして、春水堂に通い始めて1年半。さすがにそろそろ引き際かと考えた関谷氏は、ありったけの熱い想いをつづった中国語の資料を男性店員に渡した。

「これが最後のお願いです。これをオーナーに見せてほしい」

 そして、その1週間後。男性店員から1通のメールがきた。

「オーナーに見せました。関谷さんに会いたいと言っています」

ダメ出しの連続、最後にオーナーが決断したのは…

 オーナーと面会した関谷氏は、自分がまったくの飲食の素人であることを伝えた。そんな彼にオーナーは驚き、大声で笑ったが、それでも提案書を高く評価してくれた。

 本当に日本進出のパートナーとなり得る存在なのか。関谷氏は春水堂の幹部たちから大量の宿題が出され、それに立ち向かった。品質維持のオペレーション、従業員の教育計画、店舗設計プランなど、飲食業界に明るくない関谷氏にとっては難題ばかりだった。

 春水堂の幹部たちは日本進出に大反対だったが、オーナーだけが関谷氏を評価してくれている。そんな状況のまま、1年が経った。ダメ出しをされるばかりの日々だったが、決してくじけることはなかった。「春水堂を日本に進出させられるのは自分だけ」という想いが、それを支えた。

 そんなあるとき、台湾での経営会議に呼ばれた関谷氏は、その前にオーナーと2人で話す機会を設けた。その場で、関谷氏はこう語った。

「100%上手くいくという保証は、確かにありません。でも、僕には誰にも負けない情熱があります。飲食の経験はありませんが、だからこそ誰よりも素直だ。そして、日本展開は息子さんと共同でやらせてくれませんか。息子さんは飲食のプロです。サポートしてくれたら心強い」

「ただ、僕には経営の経験は多少はあります。そして息子さんと僕とは年齢も近い。仲もよいし相性もよい。息子さんにとっても海外展開は新たな成長の機会になるはずです。わたしはそのベストパートナーになれる」(p.57,58より引用)

 熱い言葉だった。「息子さん」とは、春水堂に通い始めて最初に仲良くなった男性店員のこと。実は、彼はオーナーの息子だったのだ。関谷氏の熱意は運と縁を引き寄せていた。

 心強いパートナーと一緒にやりたい。その想いを関谷氏はまっすぐに伝えた。そして、最後にこう告げた。

「ゼロからの起業。タピオカミルクティーの開発。長い歴史のあるお茶文化に革命を起こした。オーナー、あなたは真の挑戦者です」(p.58より)

 経営会議が始まり、関谷氏と組むことに反対の声が飛び交う中で、オーナーは決断をする。それは、関谷氏に任せてみるということだった。オーナーも周囲の反対を押し切って春水堂を立ち上げた。全力でやって失敗したなら、それもかまわない。そんな想いがあったのだろう。そして、関谷氏はオーナーの息子とともに日本での春水堂展開を進めることになった。

「絶対にうまくいかない」を乗り越えた先に

 春水堂、日本上陸――。

 そんな噂を知った一人の女性が、SNSで関谷氏にアクセスしてきた。彼女は世界的な経営コンサル会社の社員で、駐在していた台湾で春水堂愛に目覚め、いてもたってもいられずに関谷氏に連絡をしてきたのだった。

 春水堂への想いを持つ2人は面会し、さっそく意気投合。話はどんどん進んでいき、いつしかどのように日本展開しようかという具体的なテーマに移っていた。関谷氏は、話せば話すほど、この人と一緒にやりたいという想いが強くなったという。そして、帰り際、意を決して彼女に「コンサルとしてではなく一緒にやらないか」と誘った。

 彼女にとってみれば、それはあまりにもリスクのある選択だった。給料も下がる。うまくいくかどうかはわからない。それでも決断した。「本当によく考えました。入社させてください」。うまくいかなくとも後悔はない。想いはみな同じだった。

 関谷氏は、日本で春水堂を経営する会社「オアシスティーラウンジ」を設立。オーナーの息子は台湾にいるので、日本のスタッフは2人だけだ。2人は連日、喧嘩のようなやりとりを繰り広げた。どちらも気が強い上に、想いはそれ以上に強い。真剣だからこそぶつかった。

 ところが、立ち上げてからしばらくは苦難の状況が続いた。オープン当初こそ話題にはなったが、カフェ業界の「コーヒーがないと絶対うまくいかない」という常識が襲いかかっていた。なんとか打開しようといろいろ試したものの、迷走した。何しろ、前例もなければ答えもない世界にいるのだ。ただ、春水堂のオーナーへの責任がある。だから負けるわけにはいかない。そう自分たちに言い聞かせた。

 そんなときである。ヒットの芽は突然現れる。人気レストランを経営する友人に協力してもらい、台湾らしい麵料理を開発し、それとミルクティーをセットで売り始めた。すると、おしゃれで落ち着く店内で女性が気軽に食事できるお店としてヒットした。

 その後、本格的なお茶を使ったアレンジティーが少しずつ熱狂的なファンを生み出しながら、店舗は都内から関東、そして全国へと広がっていき、空前のタピオカミルクティーブームへとつながっていく。春水堂の日本上陸から3年が経とうとしていた。

「これをやるんだ」という強い想いから始まった飲食事業は、水道事業に続くオアシスグループのもう一つの柱となった。しかし、まだ柱が足りない。もう一つの経営の柱がなければいけない。そう考えていた矢先、関谷氏はまたまた奇想天外なアイデアにめぐり合うことになる。

(文=編集部)

※本記事はPR記事です。

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