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『青天を衝け』草なぎ剛が出ていったあとの一橋徳川家は?…慶喜の将軍就任後の継承者たち

文=菊地浩之
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江戸時代後期の大名、徳川茂栄(もちはる)。美濃高須藩11代藩主、尾張藩15代藩主、一橋徳川家10代当主。幕末から明治にかけて、目まぐるしく移り変わる時代に生きた茂栄の数奇なる運命とは?(画像はWikipediaより)

「高須四兄弟」の五男・徳川茂栄の数奇なる運命…美濃高須藩主→尾張藩主→一橋藩主

 NHK大河ドラマ『青天を衝け』第12回(5月2日放送)で、一橋徳川慶喜(演:草なぎ剛)は上洛を宣言。養祖母・徳信院(演:美村里江)と美賀君(演:川栄李奈)は、ともに一橋家を守っていくことを誓った――のだが、慶喜はこの後(1866年12月)、将軍家の家督を継ぎ、征夷大将軍となる。つまり、一橋家からオサラバしてしまうのだ。では、そのあと、一橋家はどうなったのか。

 当然ではあるが、一橋家には新たな養子が来た。徳川茂栄(もちはる/1831~1884年)、35歳(以下、年齢は満年齢表示)。

 茂栄は、美濃高須藩主・松平義建(よしたつ)の五男として生まれた。有名な「高須四兄弟」のひとりである。

 何が有名かというと、次男の徳川慶恕(よしくみ/のち慶勝[よしかつ])は尾張徳川家を継ぎ、七男で会津松平家を継いだ京都守護職・松平容保(かたもり)、八男桑名藩の久松松平家を継いだ京都所司代・松平定敬(さだあき)と、名君ぞろいだったのだ。実は三男に浜田藩の越智(おち)松平家を継いだ松平武成(たけしげ)もいるのだが、維新前に死去したためか、残念な人物だったのか、高須四兄弟には算入されていない。

徳川茂栄、実家の高須松平家、そして本家の尾張徳川家を継ぐ

 高須松平家は尾張徳川家の分家なのだが、祖父・松平義和(よしより)は水戸徳川家からの養子で、高須四兄弟は慶喜の又従兄弟にあたる。茂栄は、2人の兄が養子に行ってしまったので19歳で高須松平家を継いだ。当時の名前は松平義比(よしちか)。

 ところが、1858年に安政の大獄が起きて、実兄・徳川慶恕が隠居に追い込まれた。慶恕の子・元千代(のちの徳川義宜[よしのり])は2カ月前に生まれたばかり、茂栄がピンチヒッターとして尾張徳川家を継ぐことになり、茂栄は徳川茂徳(もちなが)と名を改めた(本稿ではややこしいので、そのまま茂栄と表記する)。

 そもそも、高須松平家の役割が、尾張徳川家のネクスト・バッターボックスみたいなものだから、それはしょうがない。茂栄の1歳の子を松平義端(よしまさ)と改名させて、美濃高須藩主としたが、2年後の1860年に早世してしまったので、末弟・十男の松平義勇(よしたけ)を後継藩主とした。義勇はその前年に生まれたばかり、父・義建は還暦だった。

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徳川茂栄の実兄で、尾張徳川家第14代・第17代当主、徳川慶恕(よしくみ)。安政の大獄によりこの慶恕が隠居に追い込まれたため、弟の茂栄がピンチヒッターとして15代当主となった。(画像はWikipediaより)

「高須四兄弟」の長兄・徳川慶恕が復帰し、尾張家は内紛へ…仕方なく五男・茂栄は隠居を選択

 安政の大獄の後、今度は桜田門外の変が起こって井伊直弼が暗殺される。となると、安政の大獄で隠居・謹慎された面々が赦免されるようになり、1862年、実兄・徳川慶恕の謹慎が解ける。ここで、「兄弟仲良く尾張藩を盛り立てていこう!」とはならなかった。

 安政の大獄で慶恕が隠居すると、尾張徳川家では慶恕派の家臣も自重を余儀なくされ、反慶恕派が台頭。かれらが茂栄を歓待した。当然、茂栄は慶恕とは反対の政策をとる。ところが慶恕が復帰すると、慶恕派の家臣が息を吹き返し、尾張徳川家は内部対立の様相を呈してくる。茂栄は高須藩への復帰を希望したが、弟・義勇がいるので、簡単にはいかない。

 1863年、ついに茂栄は隠居して玄同(げんどう)と名乗り、慶恕の子・元千代(5歳)に家督を譲った。もちろん5歳児に藩政はできないので、父・慶恕が院政を敷いた。

 茂栄は隠居後、大坂滞在中の将軍・家茂の側近くにあり、「親と思うぞよ」といわれるくらい信頼されていた。家茂の父・徳川斉順(なりゆき)は、11代将軍・徳川家斉の7男として生まれ、清水徳川家を継いだ後、紀伊徳川家の婿養子となった。だから家茂は、父と縁のある清水徳川家の当主に茂栄を迎えようと画策したという。

清水家を継げなかった徳川茂栄は、兄・慶恕の勧めで一橋家を継承…戊辰戦争では徳川家を代表し官軍と交渉

 茂栄は清水徳川家相続を目の前にして、ひっくり返された。では、清水徳川家を誰が継いだのかといえば、15代将軍・慶喜の異母弟、徳川昭武(あきたけ/演:板垣李光人)である。清水徳川家は1846年以来、当主不在だったのだが、慶喜が昭武の才能に感じ入り、パリ万博に派遣する際に箔を付けるために、清水徳川家の当主に据えたのだという。ついでをいえば、このパリ派遣に随員として従ったのが、渋沢栄一(演:吉沢亮)なのである。

 茂栄は清水徳川家を継げなかったのだが、代わりに廻ってきたのが一橋徳川家の家督である。時系列でいうと、以下のようになる。なんて慌ただしい。

・1866.7.20.  家茂死去
・1866.8.20.  慶喜、徳川将軍家の家督を継承
・1866.12.5.  慶喜、15代将軍に就任
・1866.12.7.  昭武、清水徳川家の家督を継承
・1866.12.27.  茂栄、一橋徳川家の家督を継承

 茂栄の家督継承には、御三卿にしっかりした人物を据えて幕府の体制を整えるべきという、実兄・徳川慶恕、実弟・松平容保の進言があったという。持つべき者はいい兄弟だね。

 ただ、この人事は成功だったようだ。戊辰戦争で、徳川家が官軍と折衝する必要が出てくるのだが、そのトップである慶喜が朝敵になってしまい、その役目を果たすことができない。そこで茂栄が慶喜に代わって徳川家を代表し、その役割を果たしたのだ。

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江戸幕府8代将軍吉宗の四男・宗尹(むねただ)を始祖とする、御三卿のひとつ、一橋徳川家を中心とする家系図。人名下のカッコ囲みの人名は、『青天を衝け』における演者名。

一橋徳川家は明治維新後…茂栄、達道、そして徳川宗敬は水戸近郊の丹下村で開拓農民に

 一橋徳川家は厳密にいえば、藩・大名ではない。しかし明治維新後、大名として認められ、華族制度が導入されると、茂栄は伯爵(5~15万石の大名相当)に列した。

 茂栄の子・徳川達道(さとみち/1872~1944年)は父の死後、家督を継ぎ、慶喜の三女・鉄子と結婚。やっぱり慶喜は一橋家のことを忘れていなかったんだね。

 達道は40代半ばになっても子に恵まれなかったので、水戸徳川家から養子・徳川宗敬(むねよし/1897~1989年)を迎えた(慶喜の甥の子にあたる)。その妻には、またも慶喜の血縁が選ばれた。慶喜の五男・池田仲博(なかひろ)が旧鳥取藩池田家の婿養子になっていたのだが、その仲博の長女・幹子(もとこ)が宗敬と結婚したのだ。

 宗敬は学習院から東京帝国大学農学部を卒業して、帝室林野局(林野庁)に入った林政学の専門家だった。宗敬は官僚ではなく、将来的には学者になりたいという希望があり、数えの30歳で帝室林野局を退職。日本の林業はドイツを手本にしていたので、ドイツに留学し、帰国後に東大農学部の講師を務めた。また、貴族院副議長も務めていた。

 そして、第二次世界大戦の敗戦。宗敬夫妻は、留学時に第一次世界大戦の敗戦国・ドイツの現状を目の当たりにしていたため、敗戦後は貴族身分が役に立たないことを知悉し、食糧自給が可能である生産者に転身することを決意。水戸近郊の丹下村で開拓農民となった。

 ただ、宗敬は戦前貴族院副議長を務めていた経歴を買われて参議院議員に選出され、のちに伊勢神宮大宮司などを務めたため、丹下村に戻ってこられない日々が多かった。仕方なく、幹子夫人が子どもを抱えて農業に従事したという。幹子はそのエピソードをまとめ、『わたしはロビンソン・クルーソー』(茨城県婦人会館)等の著作を発刊している。

 なお、著作『絹の日土の日―ハイカラ姫一代記』(PHP研究所)のなかで、父からの教えを回顧し、「大名の家では、万一お城が潰れる時、困ったと言っておいおい泣いているわけにいかないから、いつでも対策を持って先へ先へと考えるという教えだったのね」と語っている。そういう教育があったから、いろいろな苦労を乗り越えられたのだろう。われわれも見習いたいものである。

(文=菊地浩之)

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徳川幹子の著作 『徳川幹子―わたしはロビンソン・クルーソー』(日本図書センター)。徳川慶喜の五男で旧鳥取藩池田家の婿養子となっていた池田仲博の長女であった幹子は、水戸徳川家から一橋徳川家に養子に入っていた徳川宗敬に嫁す。学習院女子部時代、幹子は女王良子(のちの昭和天皇妃)の学友であるなどしたが、宗敬と結婚後は農業にその生涯を捧げた。

菊地浩之

菊地浩之

1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)、『日本のエリート家系 100家の系図を繋げてみました』(パブリック・ブレイン、2021年)など多数。

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