NEW

福沢諭吉と渋沢栄一の甥っ子たちが繰り広げた仁義なき戦い…王子製紙を舞台に乗っ取り戦争

文=菊地浩之
【この記事のキーワード】

, , ,

【確認中】福沢諭吉と渋沢栄一の甥っ子たちが繰り広げた、王子製紙を舞台にした仁義なき戦いの顛末の画像1
江戸時代から明治にかけて活躍した実業家・中上川彦次郎。母が福沢諭吉の姉である「えん」。井上馨に認められた彦次郎はのちに三井銀行の不良債権処理を推進するなどし、三井財閥の発展に大いに寄与した。(画像はWikipediaより)

福沢諭吉の甥っ子・中上川彦次郎、14歳で藩校の教員になる才能を、井上馨に見初められる

 今年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主役・渋沢栄一の新1万円札印刷が始まったというニュースを耳にした。現在の1万円札は福沢諭吉だが、2024年に渋沢栄一にバトンタッチする予定だという。そう、NHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公の渋沢栄一だ。

 興味深いことに、この2人のそれぞれ甥っ子が、栄一の創った企業の争奪戦を繰り広げたという歴史がある。つまり、新旧1万円札が争ったわけだ。この争奪戦は結局、福沢側の勝利となった。そこで今回は、この争いについて述べていこう。

 諭吉の甥・中上川彦次郎(なかみがわ・ひこじろう)は、安政元(1854)年に中津藩士・中上川才蔵の長男として生まれた(母が福沢諭吉の姉/中津は現在の大分県中津市)。

 彦次郎は幼少の頃から親戚筋の儒者に漢学を習い、明治元(1868)年にわずか14歳(満年齢)にして藩校・進修館の教員に採用された。その後、彦次郎は上京して慶應義塾に入り、卒業後は故郷・中津の洋学校、宇和島(現在の愛媛県宇和島市)の洋学校の英語教師を経て、慶応義塾で教鞭を取った。

 明治7(1874)年、彦次郎は慶応義塾の門下生・小泉信吉とともにイギリスに留学。特定の学校には学ばず、将来政治家になるために西欧の知識、見識を深め、視野を広める姿勢をとった。当時、新政府で財政を担当していた井上馨が欧米視察中で、彦次郎と小泉はロンドンで井上の英語勉学の相手をして、井上にその才能を認められた。

 明治11(1878)年7月、井上馨が参議兼工部卿に任じられると、彦次郎はその推挙で工部省に入るが、翌年9月に井上が外務卿に転じたため、彦次郎も外務省に転じ、外務省書記官に就任。11月には25歳で公信局長に抜擢される。しかし、1881年に「明治十四年の政変」が起こり、大隈重信が失脚。“大隈のブレーンでもあった”福沢諭吉の関係者も職を追われ、彦次郎も辞任を余儀なくされた。

福沢諭吉の甥っ子・中上川彦次郎、時事新報の社長から山陽鉄道の社長へ、そして三井銀行に入行

 翌明治15(1882)年、福沢諭吉は「時事新報」を創刊、彦次郎を時事新報社の社長に据えた。彦次郎は自ら執筆・編集を行う一方、新聞社の経営にも関与した。特に広告、宣伝を重視し、海外ニュースの掲載、読者欄の開設など、斬新なアイデアで販売に努めたため、売上部数はたちまち増え、明治18(1885)年には三大新聞の一角を担うまでになった。

 そんな彦次郎の才能を見込んで、明治20(1887)年に三菱社の荘田(しょうだ)平五郎から、創業計画中の山陽鉄道会社(現・JR西日本)の社長にならないかと打診があった。諭吉もこの話には賛意を示したが、彦次郎が去った後の時事新報社の経営を心配して荘田と相談し、この話を白紙に戻してしまう。しかし、彦次郎は諦めなかった。井上馨に手を回して阪神の政財界に圧力をかけ、山陽鉄道の社長就任に成功した。

 彦次郎の施策は一事が万事、当初莫大な費用を要するものの、長い目で見ると廉価で済み、効率的というものが多かった。彦次郎は複線化を前提とした用地買収を予定していたが、株主の反対によって頓挫してしまう(彦次郎が社長を辞任した後、山陽鉄道は複線化のために多額の費用を払うハメになった)。また、線路設計に関して「100分の1勾配」「15度以内のカーブ」などの原則論を強硬に主張。その実現に莫大な費用がかかったという(九州鉄道では初期費用を抑えて40分の1勾配で設計したため、数年後に再工事を余儀なくされた)。

 こうした彦次郎の施策は、短期的な利益を望む株主には、評価されなかった。株主との攻防の末、彦次郎は明治24(1891)年に山陽鉄道を辞任。井上馨の推挙で三井銀行に入行した。

 当時、空前の不況が経済界を直撃し、日本有数の富豪といわれた三井家をも揺るがした。

 三井家は江戸時代に両替商(金融機関)と呉服商を営んでいたが、明治維新後は銀行業への進出を渇望。経営不振の呉服商を切り離すことで、三井銀行の設立に漕ぎ着けた。ところが、不況で三井銀行が多額の不良債権を抱えるに至り、再建および事業改革の全権が井上に委ねられた。当時、三井の事業は三井銀行だけだったので、銀行の経営不振は大問題だった。

 井上は抜本的な改革を成し遂げるには外部から人材を招聘すべきとの結論を出した。

 その頃、井上はたまたま汽車で彦次郎に乗り合わせた。井上は彦次郎の才能を高く買っていたが、当時、彦次郎はまだ山陽鉄道の社長であるから、「もし、君がもうひとりいたら、三井家の改革を任せたいんだがなぁ」と嘆息した。ところが、彦次郎は無理解な株主の要求に飽き飽きしていたから、「渡りに船」で即座に井上の要請を受け入れた。言ってみるものである。

 かくて、中上川彦次郎は三井銀行副長に任じられた。非常にわかりづらいのだが、当時の三井財閥では「三井銀行副長」が事実上のトップの肩書きなのである。その上の総長は三井一族の三井高保が務めていたが、かれは彦次郎に全幅の信頼を置いていたので、彦次郎はこれを背景として大英断を振るった。

 不良債権の整理・回収を強引に推し進め、抵当流れとなった工場等を再建。また融資先の有力企業を乗っ取り、三井財閥の資金を使って工業化を邁進した。そして、それを成し遂げるために大量の学卒者を採用し、人材を育成した。

 三井銀行の貸出金のほぼ3分の1は不良債権であり、政官癒着を背景にした回収困難なものも少なくなかった。ところが、中上川彦次郎は相手が誰だろうがお構いなしで、気鋭の学卒行員を差し向け、不良債権の回収を断行した。その尖兵として選ばれたのが抵当係・藤山雷太(らいた)である。

RANKING
  • ジャーナリズム
  • ビジネス
  • 総合