筆者がまだ中学生の頃、日曜日の夜に家族で団らんしているときのことだ。テレビではおなじみの『サザエさん』が流れていた。そこで、マスオさんが会社で仕事をしているシーンが映し出された。それを見て、中学生だった私は素朴な疑問を抱いた。
「マスオさんは何をやっているの?」
隣にいる父は、いぶかしげに答えた。
「何って、仕事だよ」
「仕事? いつも机に座って何か書いてるだけじゃない。あとは穴子さんと話してるだけでしょ。なぜ、あれで給料もらえるの?」
「なぜって、まだ子供のお前にはわからない仕事ってものがあるんだよ」
説明するのが面倒になったのか、最後は答えともつかない答えで父にはぐらかされてしまった。
付加価値を産み出さなければ給料はもらえない
残念ながら、いい大人になった今でもマスオさんがなぜ給料がもらえるのか説明できない。いや、今だからこそ、ますます説明できないと言ったほうがいいかもしれない。
給料という経済的報酬の根拠は、本来その人が産み出した付加価値しかない。「付加価値」とはよく使われる言葉だ。何をもって「付加価値のある仕事」というかはなかなか難しいかもしれない。しかし、直接的な定義は極めてシンプルだ。付加価値とは「新たに価値を付加する」ということだ。
したがって、「付加価値のある仕事」とは、直接的にであれ間接的にであれ、「お客様が対価を払ってもいいと思える仕事」のことをいうのである。少なくとも、「お客様にとって意味のあること」でなければ、付加価値を産み出しているとはいえない。
給料をもらえる理由は、本来そういう仕事にしかない。経済的価値の裏付けがなければ経済的報酬は支払いようがないのだから、これは当然の摂理というものだ。世間知らずの中学生が感じた素朴な疑問は、今にして思えば、まったくもって的を射た疑問だったといえる。
「会社に行く」ことは仕事ではない
ところが、どうだろう。社内の雑務をこなすことを「仕事」と言っていないだろうか。朝から晩まで会議に出ることを「仕事」と呼んでいないだろうか。それこそ、「会社に行く」ということを「仕事」と言っていないだろうか。残念ながら、毎日決まった時間に会社に行っているだけでは、仕事とはいえないのである。