志望校に合格した娘の家庭教師役で発見した、良いorダメ管理職=コーチの条件
私事だが、この春に娘が第一志望の大学に合格した。その過程で、私は図らずもコーチの役割というものを実感することができた。私が娘の家庭教師役をやる羽目になったからである。私も本人も、最初からそんなことを望んでいたわけではない。しかし、娘の置かれた状況が少々特殊だった。
娘は高校2年生の夏から1年間アメリカに留学していた。受験勉強のスタートは帰国後の高校3年生の夏である。そんな時期から開始できるカリキュラムなど、どこの予備校にもない。残された時間はわずか半年。やむなく私がアドバイスしながら、独力で受験勉強をすることになったのである。
「今日、何やる?」が娘の口癖に
私はとりあえず教材を選んでやった。残された時間が半年しかないなかで、本人が試行錯誤をしている暇はない。なるべく薄い教材を厳選し、とにかくそれをやればなんとかなりそうなものを選んでやった。「あとは本人の努力に任せよう」と思っていたら、娘は毎日「今日、何やる?」と聞いてくるようになった。「ふざけるな!勉強のやり方を考えることこそが勉強だろ! どこまで甘えるつもりだ!」と思ったのだが、口に出す前に思いとどまった。
思い返せば、自分自身だってそうだったのである。現役のときは予備校にも行かず独力で受験しようとしたため、何をどのように勉強するかというところから試行錯誤をしてしまった。その結果、参考書や問題集だけはずいぶんと増えたが、受験は不合格に終わった。その後、1浪の末に合格したわけだが、それはただひたすら予備校のカリキュラムについていった結果だ。「今日、何やる?」と聞くまでもなく、予備校の時間割と教材がすべてその問いに答えてくれていたのだ。
長期的な教育効果という点では、少々失敗してでも試行錯誤を経験したほうがいいと思うが、限られた時間のなかで一定の成果を出すためには効率が悪い。そのことを思い出した私は、おとなしく娘の家庭教師役に徹することにした。
コーチや上司の存在意義
考えてみれば、ここにコーチというものの存在意義があるのだろう。プレーヤー自らが練習メニューを考えるのは難しい。プレーヤーは経験や客観性の点で限界があるからだ。プレーヤーが自ら厳しい練習を課すことも難しいし、仮に課したとしても、それを実行し続けることはやはり難しい。したがって、そこには第三者によるモニタリングも必要になる。
つまり、コーチの役割とは、戦略立案とモニタリングだ。それが間違っていたら、プレーヤーがどんなにがんばっても成果は出ない。努力する以前に“努力の方向性”が重要なのだ。
企業でいえば、これは管理職の役割だ。管理職の役割はプレーヤーと一緒になってがんばることではない。プレーヤーがどっちに向かってがんばるべきなのか、その“努力の方向性”を示すことが管理職の第一の役割だ。
その上で、その努力の方向性に向かってプレーヤーをがんばらせるのである。がんばっているというだけでプレーヤーを評価してはいけない。努力の方向性を間違えていたら、どんなに努力をしても成果は得られない。経営資源の無駄になるだけだ。方向性を指し示しても、プレーヤーがそれを実行しなければなんにもならない。プレーヤーがそれを実行できるかどうかは能力の問題もあるが、それに加えて重要なのはプレーヤーにとっての“場づくり”だ。場づくりとは、プレーヤーが余計なことに時間を取られず、やるべきことだけに集中できる環境づくりである。これもまたコーチとしての重要な役割である。
コーチがプレーヤーに指示を出すときは、一方的な押し付けではうまくいかない。「なぜ今それをやるのか」という理由を理解させることが重要だ。理由の理解は高いモチベーションにつながる。コーチの役割を担う者は、黒子に徹することも重要だ。主役はあくまでもプレーヤーなのである。「自分が主役」とプレーヤー自身が実感できることもまた、高いモチベーションにつながる。
第一志望に合格して遊び回っている娘は、コーチ役としての私の努力など知ったことではないようであるが、それでいいのだ。上司の力添えがあったからこその成果であっても、上司は部下の手柄にしてやればいいのである。何より、戦略がどんなに立派でも実行が伴わなければ、ただの絵に描いた餅で終わる。企業においても戦略とオペレーションは両輪である。どちらが欠けても成果は出ない。
かなりの幸運に恵まれたとはいえ、限られた時間のなかで戦略を見事に実行してみせた娘を今は素直に褒めてやりたい。そしてここから先は、自ら戦略も立てられるように自立していってほしいと願っている。
(文=金子智朗/公認会計士、ブライトワイズコンサルティング代表)