ある武田の中堅社員は次のように打ち明ける。
「武田が医師からも同業他社からも常に一目置かれる存在だったのは、売上にしても、社員の士気や知識にしてもダントツで日本一だったから。ところが、事業の切り離しによって(売上で)アステラス製薬に抜かれかねない状況となり、社員の会社に対する忠誠心も揺らぐようになると、武田の神通力もやがて通用しなくなっていくだろう」
リストラの代償
実はこうした危惧の念は、製薬企業にとっての生命線であり、武田復権のカギを握る研究開発部門でより顕著というから深刻だ。
今から10年前の06年秋、当時の長谷川社長は大阪府内への残留を熱望する地元の声を袖にして、神奈川県の藤沢・鎌倉両市にまたがる旧湘南工場跡地に総工費約1470億円をかけて世界最大級の湘南研究所を建設することを決めた。大阪市内と茨城県つくば市に分散していた同社の創薬研究機能を統合し、グローバル研究を加速させるのだと長谷川氏は力説した。
ところが、11年2月にオープンした同研究所はその後、期待を裏切るかのような展開に陥る。直後に襲った東日本大震災は自慢の免震設備が無事に機能したものの、長谷川社長が招き入れた外国人や外資系製薬会社出身の研究者たちが胃潰瘍治療薬「タケプロン」や降圧剤「ブロプレス」などを生み出した武田の伝統的な研究開発風土を破壊。フランス人CFOが主導したリストラの大波も押し寄せた結果、「腰を据えて創薬研究をできる環境ではなくなった」(武田OB)。
そういった「異変」に敏感に反応したのが薬学系学生だった。武田が大阪市内に研究所を構えていた頃、京都大学や大阪大学の薬学部修士課程修了者の就職先人気はダントツで武田だった。ところが研究所を神奈川県に移して以降、関西に研究所を構え続ける塩野義製薬や小野薬品工業の人気が高まり、逆に武田は、優秀な学生の確保に苦慮するようになってしまった。
学生の資質と創薬効率とが正比例するものではないことは重々承知のうえでだが、武田の研究開発力に将来、ボディーブローのように効いてきそうな話ではある。
そうでなくても目下のところ、グローバルに売れる新薬が枯渇してしまった武田に対して、塩野義はGSKと共同開発した抗HIV(ヒト免疫不全ウイルス)薬「テビケイ」が「年商3000~5000億円規模の大型薬に向けて成長中」(証券アナリスト)。同じく塩野義が自社で創製したインフルエンザ治療薬も、スイスのロシュと組んで世界展開に乗り出そうとしている矢先にある。