「客に親切すぎる&品揃え豊富すぎる」店が閉店、売上日本一だったダイエー碑文谷店も閉店
ニーズの変化に対応できず売り上げ激減
2012年、老朽化に伴い改装し、足湯やイベントホールなど「モノ消費」から「コト消費」への転換を意識したサービスも展開したが、新たな集客には寄与しなかったようだ。また、改装の際に売場レイアウトも大幅に変更した。
筆者は、全面改装オープンから2日間、仕事の依頼を受け、店内で推奨販売をさせていただいたが、シニア顧客から「欲しいものがどこに並んでいるかわからなくなったので教えてほしい」という問い合わせをかなり多く受けた。
勝手知ったる買いやすい売場が変わってしまったことは、ロイヤルユーザーの店離れを加速させたと考えられる。
閉店セールに出向くと、シニア客と店員のやり取りがあちこちで見られた。聞き耳を立ててみると、内容のほとんどは跡地にオープンする「MEGAドン・キホーテ」に関することで、客自身が購入していた商品を同店で引き続き買えるのかといった質問をしていた。それに対し店員は、「別の会社なので、方針はわからない」と寂しそうに回答していたのが印象的だった。
ここまで見てきたダイシン百貨店の戦略は、モノ不足の時代に幼少期を送り「買いたいものはまとめて買っておく」というスタンスの70代以上の顧客には受け入れられたものの、インターネットを使いこなす60代のアクティブシニアの購買行動とは距離があったようにみえる。つまり、シニアニーズの変化についていけなかったことが、閉店を余儀なくされた主要因と考えられる。
店内を見渡したところ、近隣のマンションなどに住むファミリー層の取り込みもできていなかったのは明白で、2000年代後半のピーク時に年商77億円あった売り上げは、15年1月期に53億円まで落ち込み、経常赤字は8000万円に上った。
その結果、身売りに至ったのだ。運営主体はダイシン百貨店のまま、6月下旬にMEGAドン・キホーテとして生まれ変わる。総合スーパー(GMS)では唯一、勢いのある小売のドン・キホーテがどのような施策でお客をつかまえるのか、注視したい。
ダイエーのフラッグシップ店の衰退
もう一方、日本のGMSでかつてナンバー1だったダイエーのフラッグシップ店といわれたダイエー碑文谷店についてみてみよう。
関西を中心に展開していたダイエーが、首都圏の旗艦店としてオープンしたのは1975年のことだ。創業者で「流通王」の異名を取った故中内功氏が、近隣の高級住宅街田園調布に住んでいたこともあり、頻繁に視察に訪れて指示をした店としても知られている。