JRグループのダイヤ改正が行われた2020(令和2)年3月14日、JR東日本に新駅が誕生した。場所は山手線・京浜東北線の田町~品川間、その名は「高輪ゲートウェイ」駅である。これら路線への新駅設置は、2000(平成12)年に京浜東北線でさいたま新都心が誕生しているが、山手線では1971(昭和46)年の西日暮里以来49年ぶりのこととなる。
新駅が追加された田町~品川間の駅間距離は2.2キロもあった。山手線の場合、高輪ゲートウェイ駅誕生以前の平均駅間距離は1.19キロ。もちろん、この間が最長だった。新駅設置の目的は、こうした利便性を高めることにもあった。ちなみに田町~高輪ゲートウェイ間は1.3キロ、高輪ゲートウェイ~品川間は0.9キロとなっている。なお、高輪ゲートウェイ駅誕生で山手線の平均駅間距離は1.15キロとなり、現在の最長は品川~大崎間の2.0キロだ。
一方、新駅設置には相応の用地が必要となる。田町~品川間には広大なJR東日本の車両基地(東京総合車両センター<田町センター>)があり、施設の見直しなどによってここから約13haもの用地が創出された。JR東日本グループでは、この用地を活用して「グローバルゲートウェイ品川」とするコンセプトのもとに新たな街づくりを進めている。今回誕生した高輪ゲートウェイ駅は、その新たな街の拠点として一足先に開設されたものだ。ちなみにこのプロジェクトは、2019(平成31)年4月の国家戦略特別区域諮問会議などを経て内閣総理大臣による「都市計画」決定を受けている。
なお、車両基地が廃止されたわけではなく、現在も東海道本線や上野東京ラインなどで運転される車両の留置施設として活用されている。高輪ゲートウェイ駅のすぐわきには寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」用の285系電車などの姿を見ることができる。
車両基地の存在
高輪ゲートウェイ駅の新設や新たな街づくりには、このように車両基地の存在が大きなカギとなっているが、これは鉄道設置時からあったものではない。新橋~横浜間で日本の鉄道の歴史が始まった当時、田町~品川間は海岸沿いに位置していた。鉄道黎明期に描かれた錦絵には鉄道が海岸沿いに走っている様子も記されているが、このような状況だった。
その後、東京湾の埋め立てによって海岸線が移動、鉄道も内陸を走るようになる。現在の車両基地に活用された用地もこの埋め立てによって生まれている。東京湾では江戸時代から船舶の運航が行なわれているが、隅田川河口部で土砂の堆積が進み、通行に支障が出るようになった。そこで明治中期から航路を確保する浚渫工事が始まる。芝浦から品川台場外までの工事は1911(明治44)年から1920(大正9)年にかけて行われ、この浚渫土によって海岸沿いの埋立地が造成されていった。これにより田町付近~品川間の鉄道の海側に陸地ができたのだ。
さらに昭和に入ると東京港の利用が活発化、1931(昭和6)年から東京港修築事業が始まる。これは大型船舶の航行や停泊を可能にするもので、竹芝桟橋などが整備されている。この浚渫土も埋め立てに活用され、田町付近~品川間の陸地はさらに広がった。
こうして線路わきにできた陸地を活用した動きは昭和初期から始まった。1930(昭和5)年、横須賀線の東京~横須賀間で電車運転が始まった。この電車運転開始に向けて新たな車両基地が必要となり、田町~品川間に田町電車区が設置された。その後、東京駅の拡張整備も始まり、1942(昭和17)年には東京駅に併設されていた機関区と客車検修設備も田町~品川間に移転して東京機関区および品川客車区が誕生した。なお、品川駅界隈では明治期に貨車操車場(昭和初期に客車専用に変更)、品川電車区(戦後、大崎電車区に移転)なども設置されている。
こうして田町~品川間には、機関車、電車、そして客車を扱う広大な車両基地が形成されたのだ。これは戦後の新生国鉄にも引き継がれたが、国鉄晩年には民営化を控えた組織改編を実施、東京機関区と品川客車区が統合されて東京運転区となり、さらに品川運転所と名称変更されている。こうして田町電車区および品川運転所としてJR東日本に移行したが、さらに統廃合が続いた。
上野東京ラインの開業
もっとも、こうした施設の統合や改称などで広大な用地が創出されたわけではない。首都圏では2015(平成27)年に上野東京ラインが開業、列車の運行体系が大きく変わっている。それまで東海道本線は東京駅、東北本線などは上野駅で折り返すかたちで運行されていたが、両線を直通運転するようになったのだ。
車両基地は列車の折り返し駅のそばに設置するのが効率的と考えられているが、こうした直通運転により運行上の中間地点となる田町電車区(この時代は田町車両センターに改称)の必要性が減ったのだ。つまり、用地的にも余剰が出てくる。これを活用することになったのである。
上野東京ライン完成を見据えて、田町車両センターの配属車両は国府津車両センターなどに転属、田町車両センターそのものも縮小のうえ、東京総合車両センターの下部組織となったのである。
「グローバルゲートウェイ品川」となる街づくりに向けた再開発の用地は、一朝一夕に生み出されたものではなく、国鉄晩年から四半世紀以上かけて進められた運行体制の再構築によって生み出されたのである。
新時代の見本市
街づくりのほうは2024年ごろをめどに進められ、駅周辺では土地整備工事の真っ最中だ。ちなみに高輪ゲートウェイ駅そのものも、今回は暫定的な開業とされ、全設備が完成したわけではない。とはいえ、21世紀の新駅に相応しいさまざまな取り組みがなされている。
当駅には山手線と京浜東北線の電車が発着、それぞれのホームが1本ずつ並んで設置されている。ホーム全体が駅施設で覆われているが、中間部は巨大な吹き抜けとなり、明るくかつ広々とした雰囲気だ。これは膜屋根とした構造によるもので、膜屋根による光透過を活用することで日中の照明用電力の削減に役立っている。さらに膜材は熱反射率の高い素材を採用、内部の温度上昇も抑制している。また、東京よりのホーム屋根は太陽光パネルとし、また風力発電機も備えるなど、さまざまな環境保存技術を導入したJR東日本の提唱する「エコステ」になっている。
地上に位置したホームからは、階段、エスカレーター、エレベーターで2階のコンコースへと上る。コンコースからはガラス越しに発着する電車を眺めることもでき、鉄道ファンにはうれしい散策路にもなっている。
このコンコースには、無人決済コンビニ「TOUCH TO GO」もある。店内には約50台のカメラが設置され、どの人物が何をいくつ手にしたのかを認識、「Suica」などの交通系ICカードで支払うというものだ。人手不足の課題に対する試みのひとつだ。
また、乗り換えや観光案内は、改札内外のコンコースに設置されたデジタルサイネージ(電子看板)が対応する。マイクに向かって知りたい情報を質問すると、さまざまな情報が掲示される。乗換案内などはQRコードで自分のスマートフォンに送信させることも可能だ。
このほか、AIを活用したロボットも広く活用されている。写真の「EMIEW3」(エミュースリー)は乗換案内やイベント情報の提供などに対応するものだが、ほかにも自律移動型の移動支援ロボット、移動案内ロボット、警備・清掃ロボット、さらには広告ロボットまで複数のロボットが試行導入され、さながら新時代の見本市といった様相だ。
自動改札機も一部が最新式の機械となっている。これは高輪ゲートウェイ駅が初めてではないが、車イス利用の乗客でもICカード乗車券がタッチしやすいよう、通路側に斜めについているのが特長だ。実際に通行状態を見ていると、小さな子どもでもタッチしやすい。小学生でもICカード乗車券で電車に乗る機会があり、これもメリットと思われた。
なお、駅のデザインは、国立競技場や宝積寺駅などの作品で知られる建築家の隅研吾氏が担当している。周辺の街づくりは「グローバルゲートウェイ品川」とした国際交流拠点に位置付けられているが、駅は街と一体感を持ち、さらに“和”を感じさせるものとされている。先述の屋根は折紙をモチーフに障子などもイメージさせ、さらに随所に木材も活用している。こうしたデザインが新しい街とどのように調和していくのか、数年後の街びらきが楽しみだ。
(文=松本典久/鉄道ジャーナリスト)