「働き方改革」の虚妄…まず自分の仕事時間の使い方を分析→見たくない現実を直視しよう
国を挙げての関心事となっている「働き方改革」は、そのほとんどの議論が残業時間削減に象徴される長時間労働の是正に集中しているようにみえる。
そして、長時間労働是正の根拠としてよく使われるのが、日本の労働生産性の低さだ。2018年3月9日付日本経済新聞のコラムでも取り上げられていたが、日本の労働生産性の低さは惨憺たる状況だ。2016年においてはOECD加盟国35カ国中21位という低さだし、先進7カ国(G7)の中では万年最下位だ。先進国としてはまったく恥ずべき状況なのである。
なかでもホワイトカラーの生産性の低さが指摘されている。そこで長時間労働の是正ということになるわけだ。なんだかもっともらしく聞こえる話だが、結論から言うと、長時間労働を是正しただけでは労働生産性は改善しない。むしろ、悪化することさえあり得る。
労働生産性とは1人当たりの付加価値
そもそも労働生産性とは何かというと、それは一人当たりの付加価値として定義される。計算式は、以下のようになる。
分子の「付加価値」とは、「企業が新たに付加した価値」ということである。ざっくり言えば売上総利益、いわゆる粗利にほぼ等しいものと思っていい。売価と仕入値の差額が企業が新たに付加した価値とみなせるからだ。さらに簡単に言えば、要するに「利益」ということである。
この計算式の中に「時間」というファクターは入っていない。したがって、労働時間を減らしただけでは、労働生産性の分子も分母も何も変わらない。
「減らす」ことを考えるならば、分母の従業員数を減らさなければならない。今までと同じ利益を今までより少ない人数で実現できて初めて、労働生産性は改善される。従業員数削減のためには総労働時間の短縮が必要で、そのための第一歩として長時間労働の是正が必要だというならまだわかる。
しかし、従業員数を減らすということは企業規模を縮小することだから、普通に考えれば企業全体の利益も減少してしまう。従業員を減らさなくても、労働時間を短縮するだけでも企業が生み出す利益は減少する可能性が高い。今までよりも働かなくなるのだから当然だ。そうなれば、むしろ労働生産性は悪化してしまう。
ちゃんと因果関係を踏まえて手段を考えないと、単なる自己満足の施策で終わるどころか、裏目に出ることさえあり得るという典型例である。