重要な物流拠点
新橋駅の開業は1872(明治5)年と先述したが、じつは当時から現在の場所に駅があったわけではない。開業当時の新橋駅は、現在地の東側、第一京浜を渡った汐留地区にあった。現在、「汐留シオサイト」などとして再開発された地域が駅だったのである。
当時の新橋駅は、新橋~横浜間の鉄道の拠点として、機関庫などの車両基地も備える広大なものだった。開業翌年からは旅客営業だけでなく、貨物営業も行うようになり、構内はさらに拡張されていった。そして明治中期、東海道本線をはじめ国内の鉄道網が整備されていくと、新橋駅は東京の物流拠点として重要な責務を担うようになる。
この頃、東京の都市計画が進められ、新たな旅客駅として東京中央停車場構想が立ち上がる。その名の通り、東京の中央部に定められ、首都・東京の玄関口となる駅だ。これは1914(大正3)年に現在の東京駅として開業するが、併せて新橋駅の旅客営業と貨物営業を分離することになった。客貨分離により、より効率的な運用を目指したのである。
この事業に向けて、1909(明治42)年12月16日、現在の新橋駅の位置に、新たに旅客専用の烏森駅が開業した。その後も東京駅に続く線路の建設が進められ、1914(大正3)年3月には烏森駅周辺では駅舎を兼ねたレンガ構造もでき上がった。そして同年12月20日には東京駅が開業する。同時に初代新橋駅を貨物専用の汐留駅、烏森駅を新橋駅(2代目)に改称して、機能を分離したのである。
以後、汐留駅は東京の重要な物流拠点として国鉄晩年の1986(昭和61)年まで活用された。昭和初期には近接する築地地区に東京中央卸売市場も開設される。これは「築地市場」として親しまれ、東京の食生活を支えることになる。市場開設と同時に汐留駅から直通する鉄道が設けられ、市場内には東京市場駅も設置された。この鉄道は1984(昭和59)年まで運行され、九州・中国方面からの水産物などを直送していた。
現在、銀座郵便局のわきに踏切信号機がモニュメントとして保存されているが、これは汐留駅と市場を結ぶ鉄道で使われていたもので、朝日新聞東京本社わきに続くカーブした道路が線路跡だ。築地市場も2018年10月で豊洲に移転した今、汐留駅や市場の存在を語ってくれる貴重な遺構といえる。
なお、汐留駅時代の1965(昭和40)年、構内の一部が「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として国の史跡に指定された。さらに汐留駅廃止による再開発の作業中、旧・新橋駅時代の駅舎遺構が見つかった。そこで史跡位置を駅舎位置に移行して「旧新橋停車場跡」と改めた。さらに2003(平成15)年には駅舎も復元、「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」としている。
大変貌
JR東日本では、管内各地でバリアフリー化、ホームドア設置などの整備を進めているが、新橋駅でも10年11月から改良工事に取り掛かっている。特に新橋駅では先述のように明治・大正期のレンガ構造も残っており、これらの耐震対策も併せて行われている。
工事途上の13年には「2020オリンピック・パラリンピック」の東京開催が決まったが、新橋駅では会場となるベイエリア地区への乗換駅としての機能も担うことになった。バリアフリー化に向けてコンコースの拡張整備も入っていたが、新たに駅全体を被う大屋根を設けることになった。これにより個々のホームを被っていた屋根を撤去、ホーム上の柱を少なくすることで、よりスムーズな動線を確保するという狙いだ。
20年の東京オリンピック・パラリンピックまでにはホームドアも含めた竣工を目指しており、大きく様変わりした新橋駅に出迎えられるのももうすぐだ。
(文=松本典久/鉄道ジャーナリスト)