太陽のない街
白山というと都営地下鉄三田線の駅であり、水道橋から2駅目ということもあって、都心とはいえ、住んでいる人、通勤通学で通う人以外はあまり行かない駅かもしれない。だが戦前は花街として栄えたところなのだ。
地理的には、東側を本郷西片、向丘、本駒込といった丘の上の高級住宅地から下ってきた低地である。低地なのに白山という地名なのは、白山神社があるからだ。白山三丁目には小石川植物園があるが、植物園の西側が小石川という川の暗渠である。豊島区の長崎方面を源流とする谷端川(やばたがわ)が池袋あたりを蛇行して大塚の三業地を経て、南下すると小石川と名を変える。
そして小石川後楽園や東京ドームあたりを流れて神田川に合流する。江戸時代の初期にはこの小石川まで入江だったという。この小石川沿いは工場地帯であり、印刷工場などが多かった。徳永直の小説『太陽のない街』もこのあたりの印刷工場が舞台である。
なお、東京ドームは30年ほど前までは後楽園球場、戦後は隣に遊園地としての後楽園が追加されていたが、1937年に球場が出来る前は陸軍砲兵工廠(こうしょう)であり、その前は水戸藩の上屋敷だった。
やばい街だった白山
さて、この白山の1丁目、本郷から下ったあたりに、かつてかなり名を馳せた三業地があった。明治時代、しだいに商店が建ち始め、日清戦争(1894年)の頃になると、前述した砲兵工廠の工員たちがたくさん行き来するようになり、住宅も増え、夜には露店が現れ、新開地として栄えていったのだ。また百軒長屋と呼ばれるような貧乏長屋もたくさんあったという。
さらに日露戦争(1904年)の頃から、銘酒屋(めいしや)や揚弓場(ようきゅうじょう)がたくさんできるようになる。銘酒屋とは酒を飲ませる店でありながら、酌婦がいて、そのまま店に上がって性的サービスをする店である。揚弓場とは弓矢で的に当てて遊ぶ場所だが、これも店に女性がいて、やはりサービスをするのである。揚弓場は矢場(やば)ともいい、「やばい」という言葉はこの矢場から生まれた。
要するに白山は夜の歓楽街になっていったのである。樋口一葉の「にごりえ」はこの白山の銘酒屋をモデルにしている。一葉も一時期白山に住んでいたのである。
三業地として発展
こうして街が発展するのはいいが、あまりに性的なサービスの街になっていくのも困る。そこで、当時は警察に届けて正式に三業地として認めてもらうのがおきまりの方策だった。警察が管理するのだから、私娼は排除される。料亭があり、置屋があり、芸妓がいて、ちゃんと芸妓を上げて遊ぶ。最後にすることは同じでも、これなら天下公認だからである。
白山で酒屋と居酒屋を兼業していた秋本鉄五郎という人物がいた。彼が白山に三業地をつくった中心人物であり、その後、白山だけでなく、東京の各地の三業地の創設にも助力した人物である。その息子が秋本平十郎であり、彼も白山三業地の発展に功績があったので、平十郎の胸像が白山三業地跡地に今もある。平十郎は戦後、本連載でも触れた特殊慰安施設協会の設立でも中心的な役割を果たし協会の常務理事となった人物である。
話を戻すと、秋本鉄五郎は居酒屋を改修して料理屋「かね万」を1904年頃に開業した。料理があれば酌婦が欲しいということで、近所の芸事の師匠に頼んでいたが、拡大する需要に応えるには不足であった。そこで神楽坂、四谷、下谷、湯島の花柳界から芸妓を呼んでいたが、これでは能率が悪い。そこで白山独自に花柳界、三業地の創設を急いだのである。
こうして1912年、白山三業組合が設立され、15年には白山三業株式会社となった。社長は秋本である。株式会社となった三業地は東京として唯一であった。18~20年ごろには全盛期を迎え、22年になると「モダン芸妓」というものが白山に現れた。モダン芸妓とは、ひとつは外国人の芸妓であり、最初はアメリカ人。着物ではなくモダンな服装で登場した。亡命したロシア人もいたという。
さらに23年4月には、上野公園で開催された大正博覧会に白山の芸妓衆55名が出演して、踊りや常磐津で喝采を浴びた。それまでまだ世間的に認められていなかった白山芸妓たちは、この博覧会を契機として、その存在を知られるようになった。25年には白山芸妓の常磐津がラジオで放送されたこともある。芸妓がラジオ出演したのはこれが最初だといわれている。
ストリップ・ダンスの登場
こうして発展した白山三業地であるが、昭和に入るとモダンな文化が隆盛し、映画女優、バス・ガール(車掌)、ダンサー、カフェの女給、はては映画館で切符を売るチケット・ガールまでもが女性の新職業としてもてはやされるようになり、芸妓の地位が下がり始めるという時代になっていった。だから、あまり芸のない芸妓は、カフェの女給に転職するということも多かったらしく、永井荷風を読んでもそんなことが書いてある。
そのため芸妓にも、三味線、踊り、常磐津など以外の新しい芸を身につける必要が出てきた。歌謡曲を歌ったり、バイオリンを弾いたりする芸妓が現れた。究極が白山に1930年に誕生した「ダンス芸妓」である。総勢11名で、蓄音機で流す流行歌に合わせて振り袖姿で踊ったり、ワンピースを着て西洋の楽曲で踊ったりしたのである。また芸妓がマンドリンやギターを弾くこともあった。
ダンス芸妓が人気を集めると、他の三業地にも波及した。ところが五反田では1934年頃、ストリップ・ダンスをする芸妓が登場し、警視庁が捜査に乗り出すことに。新聞は「ダンス芸妓弾圧はまかりならぬ」と論陣を張ったため、ますます白山のダンス芸妓の知名度が上がり、一躍マスコミの寵児となったというが、結局、ダンス芸妓は終焉することになってしまったのである。
このように、白山という今はちょっと地味な街にも、華やかな歴史がある。それが東京の面白さ、奥深さである。
(文=三浦展/カルチャースタディーズ研究所代表)