「メルセデスのデザインチーフがクルマを見にきて、ずーっと眺めているんです。『どうやって光のリフレクションができているのかがわからない』と言われました。じつは、光のリフレクションは、一般的なクルマのフォルムづくりでは御法度の連続なんですね。ドイツ人は合理的なので、こういう難しいことはやらない。だから、彼らからしたら、いったい何が起こっているのか理解できない。理解できないけれども、何か思うところがあったのでしょうね」
「VISION COUPE」には、「引き算の美学」が取り入れられている。「削ぎ落しの美学」ともいわれる。古来から培われてきた崇高で繊細な日本の美意識だ。田中は、その美意識について、次のように説明する。
「与える情報を少なくしながらも、その中にあるわずかな情緒を見る人が感じ取れるようなデザインです。100輪の花を見せる西洋のフラワーアレンジメントの世界ではなく、1輪挿しに挿した一輪の花からたくさんの花の咲き乱れる景色を想像させるようなデザインです」
「削いで削いで削ぎまくる」――。前田は、「引き算の美学」をカーデザインに表現することに命を懸けた。前田は次のように述べる。
「単にシンプルにするのは、ドイツデザインでもやる。でも、本質だけを残すところまで徹底的にやるというのは、過去に例がない。デザイナーは基本、加えていくことを考える。加えれば安心する。削ぐのは怖いですよ。価値や魅力を削ぎ落としてしまうんじゃないか。何もなくなってしまうんじゃないかという恐怖と日々、戦っています」
ドイツの建築家ブルーノ・タウトは、桂離宮を前に感涙したといわれる。なぜか。タウトは単なる形の美ではなく、その背後に存在する日本の精神性を見抜いたからだ。削いで削いで削ぎまくった後に残るのは、「余白」「移ろい」「反り」「間」からなる日本の美意識だ。
「この4つに的をしぼって、それをクルマのデザインにしたらどうなるかというアプローチで挑んだのが、『VISION COUPE』です」
私は若い頃、ジャズを聴きまくった。そのとき、本場のアメリカンのジャズに比べて、日本のそれには独特の「間」があると思った。演奏している当人同士しかわからない絶妙の間。繊細なことに気を配ろうとする日本人の心の在処を象徴しているのだろう。その意味で、「余白」も日本人独自の世界観だ。田中は言う。
「書道では、余白をどうするかを考えながら、字で埋めていく。日本画にしろ、龍安寺の石庭にしろ、全体の世界観や精神性を感じさせるためにあえて『余白』がつくられている」
「反り」もまた、微妙なカーブを美しいと感じる日本人ならではの感性だ。日本刀や神社・仏閣の屋根の形状に使われている。代表的なのは、唐招提寺の金堂、東大寺の大仏殿だ。
「もっとも難しかったのは、『移ろい』の表現です」と、前田は言う。永遠なるものを追求し、そこに美を感じ取る西洋の人たちに対し、移ろいゆくものに美を見いだすのは、日本人独特の感性だ。前田は、「移ろい」をボディサイドの光と影で表現してみせた。
「RX-VISION」は、フランスのパリで開催された第31回国際自動車フェスティバルにおいて、「Most Beautiful Concept Car of the Year」を受賞した。「VISION COUPE」も、第33回の同賞を受賞した。
クルマの美しさへの危機感
「クルマはアートだ」――。そのスローガンには、マツダのデザインの底上げと同時に、コモディティ化するクルマへの警鐘の意図が込められている。
「そのくらいの覚悟でクルマをよくしていかないと、絶対にいいものはできない。その意味では、スローガンよりもっと上のものかもしれない」
前田が「クルマはアートだ」と宣言したのは、自らを奮い立たせる意味もあるが、それ以上に生産部門のやる気に火をつける狙いがあった。
「自らを奮い立たせておかないと、量産に入ったとたんに妥協が生まれる。クルマはプロダクトだとあきらめた瞬間に、ダーッとなし崩し的に目指していたものができなくなってしまう」
田中はこう言う。ドイツのデザインチームからはさっそく、クレームがきた。ドイツには、バウハウスを起源としたデザインのスタイルが存在する。モダンデザインの基礎をつくり、いまなお世界中の建築やデザインに影響を与えていることから、ドイツはデザインに強い自負を持っている。
「『クルマがアートなわけないだろう』と言うんですね。『それはわかります。われわれは、クルマがアートと言えるくらいのハードルの高いところを狙いたい。表現したいんです』といったら、そういうことかと納得してもらえたようです」
自動運転やカーシェアリングなどにより、クルマのあり方は大きく変わろうとしている。何よりも車が「所有」するものから「共有」「利用」するものへと変われば、スタイリングに求められるものは大きく変わる。そうしたなかで、次のジェネレーションに向けて、マツダのデザインはどう変わっていくのか。
「今のジェネレーションを否定するところから始めなければいけない。だから、まずはいったん否定します。そのうえで理想を目指して最初から積み上げ直す。変わるところはあると思いますが、変わらないところもたくさんあるはずです」
前田は、ヒット車をつくろうとは決して考えない。追い続けるのは、あくまでも美しさだ。その覚悟は半端ではない。
「われわれは、マーケットインのデザインはまったくしていない。むしろプロダクトアウトのデザインといっていいかもしれない。理想のクルマをつくったらこうなったというだけです」
だから、マーケット志向のクルマづくりとは相いれない。いってみれば、唯我独尊だ。
「お客さまが求めるデザインをつくるなんて嘘だと思うんです。市場調査の結果からできあがったものを見せて、お客さまに選んでもらうなんて、プロの仕事じゃない。かつてはそうだった。我々はずっと楽をしてきたんです」
いいクルマは、マーケティングではつくれないというのだ。
「ヒットさせるためのデザイン、つまりマジョリティを狙うのでは、マツダのクルマではなくなってしまう。だから、自分の引き出しをすべて開けて、最高のものを妥協なくつくることしか考えていない」
マツダのクルマは、大量生産時代のアンチテーゼだ。だから、マツダは世界市場の2%に共感してもらえればいいと考える。実際、マツダの世界市場の占有率は2%にすぎない。日産のカルロス・ゴーンは世界市場の占有率8%を目標にし、17年に3社連合の生産台数1060万台を達成した。トヨタを抜いて世界生産台数第2位に躍り出た。しかし、数値におぼれ、ゴーンは失脚した。マツダは逆である。すべての人に受け入れられる必要はない。世界市場の2%に共感してもらえればいいと言い切るのだ。ただし、コアなファン層をつかむのは、容易ではない。
「ものすごい緊張感ですよ。自分のすべての引き出しを開けてつくったものが受け入れられないとなると、お前のすべてが受け入れられないということになってしまいますから」
マツダが世界市場の2%に共感してもらえればいいと割り切れるのは、経営規模が小さいからこそだ。それこそ、1000万台規模の自動車メーカーは、口が裂けても言えない。そこにこそ、マツダの経営の自由度がある。
小よく大を制すという言葉がある。マツダは経営規模が小さいことを強みに、どこまでデザインに挑戦することができるか。日本のクルマの姿をいかに世界に発信できるか。それは、大規模自動車メーカーにはできないマツダだけのチャレンジだといえるだろう。
(文=片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家)