世界販売台数約160万台と、トヨタ自動車の6分の1にも満たず、世界シェアではトップ10に遠く及ばない。しかし、「日本ブランド」「日本の美意識」に、どこよりも強くこだわる自動車メーカーがある。マツダだ。
マツダは、「2%戦略」を打ち出した。
「すべての人に受け入れられる必要はない。世界市場の2%に共感してもらえればいい」
狙うのは、2%のコアなファンだ。共感してくれる人だけをターゲットにする大胆な戦略である。国内の自動車メーカーで、これだけニッチなターゲット戦略をとっているメーカーはない。
果たして、2%のファンの共感は得られるのか。これは、マツダのデザインをめぐる物語である。
2%に届ける「美学」~フォード傘下のジレンマ
前田育男は、マツダデザインに革命を起こした人物だ。彼のデザイン哲学は、クルマを変えただけでなく、間違いなく現在のマツダの原動力になっている。
「魂動」――。
マツダのデザイン本部長に就いた前田育男が、1年間考えに考え抜いた末、たどり着いたのがこの言葉だ。胸を打つ「鼓動」と、命を表す「魂」をひとつにした「魂動」という言葉に、前田は次のような思いを込めたのである。
「魂と命の動きですね。マツダの生き様といってもいいかもしれない」
前田は1959年、広島に生まれた。京都工芸繊維大学卒業後の82年、東洋工業(現マツダ)に入社、横浜デザインスタジオ、北米デザインスタジオで先行デザイン開発を担当。米フォード・モーターのデトロイトスタジオ駐在を経て、本社デザインスタジオで量産デザイン開発に従事する。「RX‐8」と3代目「デミオ」のチーフデザイナーを務めた。
ただ、彼のデザイナー人生は順風満帆ではなかった。むしろ、30代後半から40代後半にかけては不遇を余儀なくされた。デザイナーとしてもっとも脂がのり切る時期であった。会社人生において、もっとも成果が出てくるときだった。
「やりたいことはすごくたくさんあるのに、うまくいかないことが多くて。ある種のプレッシャーの下にいました。マグマがふつふつと沸き上がって、噴火寸前でした」
彼を悩ませたのは、フォード傘下の立場とマツダのアイデンティティとの葛藤である。マツダは79年に経営危機に陥り、米フォードの傘下に入った。彼は次のように述懐する。
「フォードグループの一員となって10年。思い通りにならないことは多くて、ストレスがたまりにたまっていた。日本の企業として、日本人として、どんな生き様をもってやっていくか……。それがないままに、フォードという大きな傘の下で、いたずらに生きてきただけの10年でした」
経営が悪化したマツダは、株式の24.5%をフォードに持ってもらう資本提携を図り、生き残りを図った。さらに90年代に入ると、バブル崩壊や販売多チャンネル化の失敗で、マツダは3期連続の大幅赤字を計上した。96年、フォードはマツダへの出資比率を33.4%に引き上げ、傘下に収め、経営権を握った。
社長にはフォード出身のヘンリー・ウォレスが就いた。以来、97年にジェームス・ミラー、99年にマーク・フィールズ、2002年にルイス・ブースと、フォード出身社長の時代が続いた。
「フォードから送られてきたデザインのディレクターたちは、もちろん悪い人たちではなかった。でも、視点が違いましたね」と前田は語る。
最初にデザイン部門のトップを務めたのは、フォードから送られたモーリー・キャラム(Moray Callum)だ。続いて、ローレンス・ヴァン・デン・アッカーがデザイン部門のトップに就いた。当時、フォードファミリーにはランドローバー、ジャガー、ボルボなどが名を連ねていた。フォードファミリーの一員となったマツダに与えられたのは、ノンプレミアムのスポーティブランドという役割だった。
「フォードの人たちは、マツダブランドをフォードグループの中での適切なポジションに置いておきたかったのだと思います。つまり、マツダはフォードグループの中でノンプレミアムブランドのポジションを担わなければいけないという不文律がありました。私は、ずっとそのことに対する悔しさがあり、いつかはという想いを持っていました」
とはいえ、フォードから与えられたプレッシャーは、マツダにとって飛躍への踏み台になったというか、実際、マツダはフォードを飛躍のためのステップにした。その意味で、フォードの傘下に入ったのは無意味ではなかった。
「今にして思えば、それが相当なバネになった。その反発心こそが、イネブラー(成功要因)になっていくわけですから、感謝しないといけないかもしれませんね」
流れが変わったのは、リーマン・ショックがキッカケだ。08年9月のリーマン・ショックの影響を受け、肝心の親会社のフォード・モーターが経営不振に陥った。資金調達のために、マツダの出資比率を引き下げ始めた。ヘンな話、これがマツダに幸いした。独り立ちを迫られることになる。
じつはマツダはリーマン・ショックの直前の06年、フォードの子会社でありながら、フォードとは違う道を歩み始めていた。マツダブランドを消すわけにはいかない。このままフォードの傘下の地位に甘んじていると、永久にマツダはダメになる。マツダブランドが輝くために必要なものはいったい何か――。
10年先を見据えたビジョンを話し合い、低燃費技術「スカイアクティブ」の開発に着手。革新的なベース技術を搭載したクルマづくりに向けて「モノ造り革新」をスタートさせ、翌07年には技術開発の長期ビジョン「サステイナブル“Zoom Zoom”宣言」を発表したのである。
「誰かが上でコントロールしたのではないんです。もう一度、生きるために原点に立ち返って、すべての本質を追求しようという気運が持ち上がった。デザインだけでなく、みんながほぼ同時に、ブランドを生き返らせようと思い始めたんです」
こだわったのは、本質の追求だった。
「マツダという会社は、“飛び道具”は使わない。直球しか投げないピッチャーなんです。だから、何事も常に本質に戻って考える。それが、マツダの風土なんです」
前田は09年、フォードからやってきた前任者のローレンス・ヴァン・デン・アッカーからデザイン本部長の職を引き継ぎ、8年ぶりの日本人のデザイン部門トップに就任した。それは、マツダにとっては画期的な出来事だった。
フォード時代は、デザイントップの交代のたびにデザインの軸が変わった。数年ごとにデザイントップが変わることから、短期的なデザインにならざるを得なかった。しかし、これからはマツダのデザインの方向性を長期にわたって、しっかりアピールできる。
「いいか、ブランドを束ねて見せることが戦略になる」
当時の社長の山内孝は、前田に言った。リーマン・ショック直後に社長に就任した山内は、肝っ玉の据わった社長として知られる。彼には、「経営は博打だ」という名言もある。前田は、こう語る。
「僕も、生き残るにはブランドだと思った。効率性や利益向上を追求しても、中国や韓国にすぐに追いつかれてしまう。幸いなことに、日本はアジアの中でクルマづくり100年の歴史がある。日本のクルマのブランド力を大事にするしかないと思った。早くそれに気づいて原点に返らなければいけない」
マツダブランドの再生は、ここから始まった。
デザインの骨格をつくる
フォードから独り立ちしたマツダは、忍従を強いられた反動からか、一気に攻めに出た。マツダの爆発だ。彼らは、必死で考えた。これまでの何を生かして、何を捨てるべきか。
マツダは、個別車種ごとのデザインを改めた。かわりに打ち出したのは、デザインの考え方の全車統一だ。車種全体で一貫性のあるデザインを採用し、マツダデザインの統一感を演出する。例えば、プロポーションを車種全体で一貫し、一目でマツダのクルマとわかるフォルムにした。前田にいわせれば、「群でみせる」デザインだ。
しかし、それは大変困難な作業だ。力のないデザインで統一すれば、それこそブランドはたちまち崩壊する。
「一貫性のあるメッセージを持つデザイン群をつくり、ブランドとしての存在感を高められれば、海外のプレミアムブランドと戦えるレベルにだってなれる」
デザインからマツダを変える壮大な実験だが、簡単ではない。かつて、ホンダも同じ構想の下、デザインの統一を試みたが、成功しなかった。
「だからこそ、これしかないというものをつくらなければいけない。どうするか。マツダのデザインとは何かを徹底して突き詰めました」
それから半年、前田は歴代のマツダ車にさかのぼって、マツダのデザインの根底に流れる美意識を探った。マツダデザインの創成期となる1960年代のマツダ車は、イタリアの著名なカーデザイナーのジョルジェット・ジウジアーロら先達に学び、美しいかたちが追求されていた。
筆頭は、69年に発売された「ルーチェロータリークーペ」だ。ジウジアーロが所属するイタリアの「ベルトーネ」にデザイン委託した最高級スポーツ車である。デザイン本部ブランドスタイル統括部主幹の田中秀昭は言う。
「当時のマツダのデザイナーがジウジアーロといっしょに仕事をしました。ジウジアーロがどうやって線図を描いて、どうやって造形をつくっていくかを横で見ながら勉強したそうです」
私は昔、そのカーデザイナーの巨匠ジウジアーロが来日した折り、都内のホテルの一室でインタビューしたことがある。彼は部屋に入ってくるなり、あまりに多くの日本側関係者が控えているのを見て、「部屋の空気が薄い」といって戻っていってしまった。気難しい天才は、入室者の制限をすることで、30分後にようやく戻ってきた。私にとって忘れられないインタビューである。
前田は、あらためて「ベルトーネ」にデザイン委託した「ルーチェロータリークーペ」を見つめなおした。
「この頃のクルマがなぜ、美しいのか。きちんとした骨格を持ち、エンジニアの思想が込められているからです」
前田は、自分もそこに到達しなければいけないと強く思った。
「これまでのマツダは、骨格づくりというよりも、上に着る“洋服づくり”に重きを置いてしまっていた。だから、ぱっと見は良かったかもしれないが、骨がなかった。クルマって走るものじゃないですか。であるからには、基本はまず、骨がなければいけない。だから、マツダの骨格はこうあるべきだというところからスタートしようと考えたんです」
海外のスポーツカーが美しいのは、骨格ががっちりつくりこまれているからだといわれる。骨格を重視してデザインしているから、力強さや美しさが伝わってくる。マツダには、クルマを意のままに操る「人馬一体」という考え方がある。であるからには、クルマのデザインにも、生きているものだけが持つ、豊かな表情や力強い生命感を与えなければいけないと考えた。
「クルマを自然界に存在するかたちにしたいと思った。自然界に存在しないフォルムをまとったクルマばかりが走ると、自然が壊れていくんじゃないか。だから、自然に溶け込むようなかたちにしたいと思った。生き物は自然界で自らをコントロールしている。クルマもそんな存在にしたい」
「靭(SHINARI)」の誕生
果たして、クルマに「命」を与え、生きた存在にすることはできるのか。
「1年間、七転八倒しました。寝ても覚めても、考え、考え、考え続けました……」
ある日のこと、前田は雷に打たれたかのような体験をした。新潟県佐渡市を拠点とするプロの和太鼓集団「鼓童」の演奏を聞いて、電撃が走った。
「ああ、この人たちすごいなと感動した。こういうビートがほしいと思った」
確かに、力強く、心臓を射抜くようなビートは、マツダのデザインに共通する精神性があった。
「もともとマツダのデザインは、動きをリズムで表現してきた。デザインにリズムが刻まれている」
私もデビュー間もない頃から「鼓童」のコンサートには何度も足を運んでいる。だから、「鼓童」の心を揺さぶる原始の太鼓の響きに前田が惹かれたのはよくわかる。太鼓の響きにデザインのリズムを直感的に感じ取ったという話に、彼の感性の一端に触れた思いがした。
前田の頭に、「鼓童」ならぬ「魂動」という言葉が電撃的に浮かんだ。彼がそこに込めたのは、クルマに「命」を与えるということだ。「魂」の生命感をクルマに与え、クルマを見た人の「魂」を動かすという意味を重ね合わせたのだ。言葉の力は絶大だ。言葉に宿る言霊は、人の魂を左右する力を持つとされる。この「魂動」という言葉も、マツダを動かす原動力になるはずだった。
ところが、そうはならなかった。なぜか。「魂動デザイン」に込められた哲学は誰にも理解されなかったのだ。「前田の言っていることはよくわからない」と揶揄された。
「言葉の意味がよくわからないと言われました。バッシングも受けました。フォード時代は“洋服のデザイン”だったから共有しやすいし、フォードから具体的な指示が下りてくるので、それに従えばよかった。それに比べて、私が言うことは、わけがわからないというわけですよ。一生懸命説明しても、『ところで、具体的なデザインはどうなるんですか』という質問が飛んでくるだけでした」
社内に“腹落ち”させるには、何かが足りなかった。彼は、再び、考え、考え、考え続けた。
「社内を巻き込むのに何よりも必要なのは、誰よりも必死に真剣に考えているという自負ですね。あとは執念みたいなものだと思います。妥協したら終わりです。だから、つねにストイックな状態にいなければいけない」
求められたのは、心に突き刺さる明確なストーリーである。前田が注目したのは、野生動物のチーターだった。時速100キロを超えるといわれる地上最速の動物、チーターの走る姿に至高の美を感じた。何よりも、チーターには「命」あるものの美しさがあった。コーナリングの機敏な動き、獲物を狙って飛び掛かるときの緊張感、疾走するときの瞬発力、生命の力強さ、すべてが「命」あるものの美しさだ。
「野生の動物は、荒野を駆け巡るときでも、動きが不安定になる瞬間がない。獲物を追いながらも、目は獲物にロックオンされている。何かにつまずいてよろけることは一切ない。足と頭と尾っぽが骨格で結ばれ、地面との関係をコントロールしている。クルマづくりも同じです。背骨の動きなどの原理原則をしっかり理解してクルマのかたちに置き換えなければいけない」
前田は、チーターが疾走する映像を見ながら、スケッチを描き続けた。チーターの動きを追いかけながら、造形の美しさを分析すると、ぶれない軸がつねに通っていること、動きに連続性があることがわかった。とりわけ美しいのは、荷重をかけ地面を蹴る瞬間だった。
デザイン本部内のアドバンスデザインスタジオは、チーターの動きの美しさをかたちにした、「Mazda靭(SHINARI)」というデザインコンセプトカーをつくった。そのビジョンモデル「靭(SHINARI)」こそが、その後のすべてのマツダ車のデザインを方向づける役割を果たしていくのだ。
2010年9月、「靭(SHINARI)」が経営陣にお披露目される日がやってきた。かけられたカバーが取り外された瞬間、経営陣たちからいっせいに拍手が起きた。
「お前の考えていることが、ようやくわかった、と言われました」
動くことのない北極星が、方角を知る大切な目印であるように、以後「靭(SHINARI)」はマツダのデザインの方向性を示す道しるべとなる。
「マツダのデザインのレベルは、ここまで上がらなければいけないということなんだよな」と、社長の山内は言った。
(文=片山修/経済ジャーナリスト、経営評論家)
※後編へ続く