ビジネスジャーナル > 企業ニュース > 「万人に効く食事」の終焉…精密栄養学が拓くロンジェビティ経済669億ドル市場

「万人に効く食事」の終焉…精密栄養学が拓くロンジェビティ経済669億ドル市場

2026.09.20 05:55 2026.09.19 18:42 企業
文=BUSINESS JOURNAL編集部、協力=高野輝/戦略コンサルタント

「万人に効く食事」の終焉…精密栄養学が拓くロンジェビティ経済669億ドル市場の画像1

●この記事のポイント
ゲノム解析・腸内細菌検査・CGMの普及で「万人に効く食事」は終焉へ。英ZOEやネスレ、日清食品「完全メシ」など精密栄養学の最前線と、インフラメイジング(炎症性老化)を防ぐ個別化食の可能性、DayTwo撤退が示す事業化の壁、2034年に669億ドル規模へ拡大する市場展望を解説する。

 同じ皿の同じ白米を食べても、隣の人と自分とでは血糖値の上がり方がまったく違う。一方は緩やかに、もう一方は急峻に跳ね上がる。持続血糖測定器(CGM)を腕に着けたことがある人なら、一度は体験したことのある違和感だろう。「カロリーを制限すれば痩せる」「糖質を抜けば健康になる」――長らく常識とされてきたこうした一般論が、個人の代謝データを可視化できるようになったことで、必ずしも万人に当てはまらないことが明らかになりつつある。

 背景にあるのは、ゲノム解析コストの劇的な低下、腸内細菌叢(マイクロバイオーム)の解析技術の進歩、そしてCGMをはじめとするウェアラブル機器の普及だ。これらが組み合わさったことで、食後血糖値の上がり方や脂質代謝の反応が、遺伝的背景や腸内環境によって人ごとに大きく異なるという事実が、研究レベルから消費者向けサービスのレベルにまで降りてきた。厚生労働省の食事摂取基準に代表される従来の栄養学が「集団の平均値」に基づく指針だったのに対し、個人のデータをもとにAIが最適解を提示する「精密栄養学(プレシジョン・ニュートリション)」は、食品産業と「健康寿命延伸(ロンジェビティ)」市場の主役に躍り出ようとしている。本稿では、その実態と、日本のビジネスパーソンが押さえておくべき論点を整理する。

●目次

「統計の平均値」から「個人専用の最適解」へ

 従来の栄養指導は、大規模な疫学調査から導かれた「平均的に望ましい」栄養バランスを、すべての人に当てはめる発想だった。PFCバランスや推奨摂取量はその典型で、集団としての健康リスクを下げるうえでは大きな役割を果たしてきた。

 これに対し精密栄養学は、遺伝子情報、腸内細菌叢のデータ、血液検査値、日々の食事ログや運動量といった個人データをAIで解析し、「その人にとって血糖値が上がりにくい食べ合わせ」や「炎症反応を起こしにくい食材」を個別に導き出そうとするアプローチである。

 なぜこれがロンジェビティの鍵とされるのか。近年の老化研究では、加齢とともに体内で慢性的かつ低レベルの炎症がくすぶり続ける状態――「インフラメイジング(炎症性老化)」と呼ばれる現象が、動脈硬化や認知機能低下など複数の加齢関連疾患に関与していると指摘されている。食後の血糖値が急激に乱高下する、いわゆる「血糖値スパイク」も、この慢性炎症や血管への負担を通じて老化を加速させる要因の一つとして研究が進む領域だ。血糖応答や炎症反応の個人差が大きいのであれば、その人に合った食事を選ぶことが、細胞レベルの老化速度に影響しうるという発想は、医学的にも合理性を持つ。

 ただし、個人差の存在そのものは複数の研究で確認されている一方、「特定の食材を避ければ生物学的年齢が若返る」といった因果関係の証明は発展途上にある。相関と因果を混同しないことが、このテーマを扱ううえでの前提になる。

海外市場を牽引するスタートアップと巨大食品企業

 グローバル市場では、この分野で先行するプレイヤーの動きがすでに具体的な事業として立ち上がっている。

 英国発のスタートアップ「ZOE」は、血液検査による脂質応答の測定、CGMによる血糖測定、腸内細菌検査をパッケージ化し、アプリ上で食材ごとの「あなた専用スコア」を算出するサブスクリプションモデルを展開する。著名な疫学者が監修に加わっていることもあり、欧米で大きな話題を呼び、複数回の資金調達を重ねて事業を拡大してきた。一方で、同社が発表した臨床試験の結果について、査読プロセスや解釈の妥当性を巡り専門家から検証の声が上がった経緯もある。個人向け健康サービスとして急成長した分野だけに、科学的な裏付けの精度をどう担保するかは、業界全体に突きつけられた課題でもある。

 イスラエル発の「DayTwo」は、腸内細菌のDNA配列とAIを組み合わせ、2型糖尿病患者やその予備群に「血糖値を上げにくい食事の組み合わせ」を個別シミュレーションで提示するサービスを提供し、保険会社や医療機関との連携も進めていた。累計で9000万ドル規模ともいわれる資金を調達しながら事業を拡大してきたが、2024年に事業を停止したと報じられている。技術的優位性があっても、保険償還の仕組みや継続的な収益モデル構築というビジネス上のハードルを越えるのは容易ではない――そう示す事例として業界内で受け止められている。

 食品業界の巨人たちも動いている。ネスレ・ヘルス・サイエンスは2019年、質問票をもとに一人ひとりに合わせたサプリメントを月単位で配送するサービスを手がける米国企業「Persona」を買収し、個別化栄養市場への布石とした。ペプシコもベンチャー部門を通じて、パーソナライズ栄養やウェルネス関連のスタートアップを対象とするアクセラレータープログラムを継続的に運営しており、市場調査会社の分析でも、アボットやデクスコムといった血糖測定機器メーカー、そしてネスレのような食品大手が、検査・診断領域とサプリメント領域を統合しながら精密栄養のエコシステムを広げていく担い手として名前が挙がる。

 市場予測にも投資マネーが向かう理由が表れている。米調査会社フォーチュン・ビジネス・インサイツによれば、個別化栄養市場は2025年に約153.5億ドル、2026年には約176.7億ドル規模に達し、2034年には約669.5億ドルまで拡大すると見込まれる。調査会社によって定義や範囲は異なり数値には幅があるものの、複数の調査が年率二桁の成長を見込む点は共通しており、単なる健康トレンドではなく投資対象として認識される産業へと変わりつつあることがうかがえる。

国内でも進む「完全栄養食」から「個別化食」への布石

 日本国内でも、パーソナライズ食への地殻変動は静かに、しかし着実に進んでいる。

 象徴的なのが日清食品ホールディングスの「完全メシ」だ。1食で33種類の栄養素を摂取できることを謳うこのブランドは主力商品群として育ち、2023年からはオフィスに冷凍ショーケースを設置し、電子レンジ調理の商品を1食500円程度で提供する社食サービス「完全メシスタンド」を展開する。2024年3月末時点で導入企業は23社・31拠点だったが、日本経済新聞の報道によれば、その後も導入先は拡大を続けており、健康経営を掲げる企業の福利厚生ニーズを追い風に供給拠点数を積み上げているという。現時点ではまだ「完全栄養食」の域にとどまるが、検診データや腸内環境データと連動した献立提案へと発展する余地は大きい。

 外食・デリバリー領域でも、萌芽的な動きが見え始めている。フードデリバリー各社は購買履歴や検索行動をもとにした健康志向メニューのレコメンド機能をすでに一部で提供しており、将来的には健診結果やウェアラブルデータと連携し、その日の体調やコンディションに合わせて店舗側がメニューを提案する仕組みへと発展する可能性が議論されている。もっとも、医療情報に類するデータを外食プラットフォームが直接扱うことへのハードルは高く、現時点では具体的な連携サービスというよりも構想段階の話として捉えるのが実態に近い。

「食×テクノロジー」が生む新たな事業機会

 精密栄養学がもたらすビジネスチャンスは、食品メーカーだけにとどまらない。

 第一に、継続的な食事ログとバイタルデータを蓄積する「データプラットフォーム」としての価値だ。食習慣と健康アウトカムを長期に紐づけたデータセットは、創薬や保険設計、健康経営コンサルティングなど多様な領域で資産になり得る。第二に、個別配合のサプリメントやビタミンをオンデマンドで製造する動きだ。3Dプリンティング技術で、検査結果に応じた配合の錠剤やグミを個包装で届ける取り組みが海外で試みられ、大量生産型のサプリメント市場に一石を投じつつある。第三に、小売業の変化である。会員データと健診・腸内検査データを連携させ、個人ごとに推奨商品を棚出しする「スマート・リテール」の構想も語られ始め、EC領域では一部で個別推奨機能の実装が進む。

普及の壁は「コスト」「楽しみ」「データガバナンス」

 一方で、精密栄養学が一般家庭にまで浸透するには、越えるべき壁が複数ある。

 一つ目はコストと手間だ。遺伝子検査や腸内細菌検査、継続的なCGM測定には相応の費用と時間がかかる。針を刺さない非侵襲型の血糖センサーなど、簡易化・低価格化を目指す技術開発が各国で進んでいるものの、健康保険が適用されない自由診療的なサービスが多く、一般消費者にとって「気軽に始められる」水準に達するまでには時間を要するとみられる。

 二つ目は、食べる楽しみという感情的な価値との両立だ。AIが示す「最適な食事」を機械的に守り続ける生活は、多くの人にとって長続きしにくい。ある食品メーカーで商品開発を担当する管理栄養士は、「データに基づく提案だとしても、美味しくて楽しい食体験でなければ、結局は続かない。むしろ和食の一汁三菜のような伝統的な食事の型を、個人データで微調整するくらいの距離感のほうが受け入れられやすいのではないか」と話す。

 三つ目はデータガバナンスの問題である。ゲノム情報や腸内細菌データ、日々のバイタルデータは、極めて機微性の高い個人情報だ。戦略コンサルタントの高野輝氏は、「この市場の成長スピードは、規制やプライバシー保護の枠組みが追いつくスピードとのバランスで決まる。データの持ち主である消費者が安心して預けられる仕組みを整えられるかどうかが、勝敗を分ける」と指摘する。

「胃袋を満たす食」から「生命を最適化する食」へ

 食品産業はこれまで、「いかに安く、大量に、飢えを満たすか」という量の充足から、「いかに健康的で、機能的な価値を持たせるか」という質の追求へと軸足を移してきた。精密栄養学の広がりは、その先にある「個人のデータに最適化された食」という新たな価値軸の到来を示している。

 もっとも、DayTwoの事業停止が示すように、技術的な先進性がそのまま事業の持続性に直結するわけではない。エビデンスの積み上げ、コストの低減、そして消費者が安心してデータを預けられる信頼の構築――これらを地道に積み重ねた企業だけが、この新しい市場で生き残っていくことになるだろう。

 食品、外食、IT、流通――業種を問わず、自社の顧客接点をどう「個別化データ」に結びつけ、その先にどんな価値を提供できるのか。この問いに向き合うことが、次の10年の事業戦略を左右することになりそうだ。

(文=BUSINESS JOURNAL編集部、協力=高野輝/戦略コンサルタント)

【主な参照データ・出典】
Personalized Nutrition Market Size, Share, Growth Report, 2034
Microbiome personalized health co DayTwo shuts down (Globes)
DayTwo — $90M Raised, Investors, Team & Alternatives
日清食品「完全メシスタンド」導入拠点(advertimes)
日清食品の栄養食「完全メシ」、社食300カ所へ供給(日本経済新聞)
Food giant Nestle pivots to gain a foothold in the personal nutrition market(CNBC)
North America Precision Nutrition Market Analysis Report 2025-2032: Abbott, Dexcom, Nestle and DSM
PepsiCo Ventures Group: Accelerating startups through the Nutrition Greenhouse
Zoe hails personalized nutrition trial success, results come under scrutiny
インフラメイジング(炎症老化)とは?原因と対策

高野輝/戦略コンサルタント

大手総合商社を経て独立。流通・小売から食品・飲料、自動車、エネルギー産業など、多様な領域で経営コンサルティングサービスを提供。

公開:2026.09.20 05:55