藤田氏は00年2月から130円のハンバーガーを65円で販売する「平日半額キャンペーン」を実施、01年にジャスダックに上場した時には「デフレ時代の勝ち組」ともてはやされた。だが時代は円安の平成不況に突入し、さらにBSE(牛海綿状脳症)騒動の逆風が吹き荒れ、焼き肉をはじめ深刻な「牛肉離れ」が起こった。牛肉離れはハンバーガーにも波及し、売り上げは激減した。円安の原材料高で藤田氏は02年2月には平日半額キャンペーンをやめ価格を上げたが客離れが加速した。
藤田氏は02年3月、日本マクドナルド会長兼CEOに就任した。同年8月にはハンバーガーを130円から59円にしたが、今度はハンバーガー価格への不信を招き、02年12月期は上場以来初の赤字に転落した。そして03年3月、藤田氏は経営責任を取って会長を退任した。
米マクドナルド本社は、藤田氏の退任後も経営指導料を払い続けていた。02年12月期も、赤字に転落したのに藤田商店に約20億円の経営指導料を払っていた。このため米マクドナルドは、03年12月、藤田商店との「経営役務契約」の解消に踏み切り、日本マクドナルドが藤田商店に解約金62億4900万円を支払った。これで藤田商店との契約を解消し、財務負担を大幅に軽減した。だが、ポテト輸入権といった藤田氏のファミリー企業である食材輸入会社デン・フジタとの取引は継続することになった。これは藤田氏がこのような契約解消の事態も想定し、藤田商店を通じ日本マクドナルドの店舗の土地を一部所有するなどして、影響力を残してきたことによる。“銀座のユダヤ商人”藤田氏は、そんな生易しい人ではなかったのである。
米本社は藤田商店との契約を解消し、自社主導で日本マクドナルドを再構築することにした。
最大の難関は、稀代の起業家(アントレプレナー)である藤田氏が30年以上かけてつくり上げてきた日本マクドナルドの経営・教育システム、企業文化などをどうするかということだった。とりわけ、藤田氏が手塩にかけて育ててきた経営幹部、店長などをどう取り扱うべきか。やり方を間違えれば、ほとんどが抵抗勢力となって、米本社のやり方に従わない可能性もあったからだ。
そんな矢先の04年4月21日、藤田氏が心筋梗塞で死去した。藤田氏は米マクドナルド創業者のレイ・クロック氏が日本マクドナルドの合弁企業相手に選んだ人物で、日本マクドナルドを大成功させた大立者である。米本社は何よりも先に、藤田氏の社葬を開催するか、それが無理なら会社主催の偲ぶ会を開催すべきであった。ところが、米本社には藤田氏を丁重に葬送するという発想がなかったどころか、これをチャンスと見て「藤田経営の破壊」を仕掛けるのだ。
(文=中村芳平/外食ジャーナリスト)