洋楽PVが地上波のテレビで毎日流れていた時代
ライヴ・エイドは、“エチオピアを救おう”という、(日本は別として)世界的なムーブメントの集大成。1985年7月13日(現地時間)に、イギリス・ロンドンのウェンブリー・スタジアムと、アメリカ・フィラデルフィアのJFKスタジアムで、大規模ジョイントコンサートを行い、世界中に募金を呼びかけるという趣旨のものだった。
英米には時差があるので、ロンドンとフィラデルフィアではスタート時刻と終了時刻に差があり、ロンドンが先(現地時間正午)に始まっている。
また、2つのメインステージ以外に、オーストラリア、西ドイツ(当時)、ソ連(当時)、ユーゴスラヴィア(当時)、ノルウェー、さらに日本と世界各地にサテライト会場が存在した。そして、計84カ国に衛星同時生中継されたテレビ放送には、そうした会場での現地ミュージシャンらの演奏の一部がインサートされた。
では、日本においてはライヴ・エイドへの関心はどれだけのものだったのだろうか。
1980年代、欧米のアーティストたちが、文字通りプロモーションの手段として、マイケル・ジャクソンの「スリラー」に代表されるプロモーションビデオ=PV(MVとはいわなかった)を制作することが一般化していく。そうしたPVを終日流し続けるケーブルテレビ・チャンネル「MTV」の誕生は、1981年のことだ。
日本でも、テレビの民放各局はこぞって、主に深夜帯に洋楽専門番組を編成していた。一方、ラジオにはもともと音楽番組が多かったが、それ以外にも、たとえばアイドルの番組で、トークの間に欧米の最新曲をかけるといったケースがごく普通にあった。1980年代、日本では洋楽のニーズがおそらく今の何倍も高かったのである。
そんな雰囲気のなか、海の向こうで開催されたライヴ・エイドには、1985年段階で日本のティーンエイジャーに人気のデュランデュラン、ワム! から、ザ・フー、ポール・マッカートニー、ビーチ・ボーイズ、サンタナ、レッド・ツェッペリン 、ミック・ジャガー、ボブ・ディランなど、1960年代から活躍するアーティストまでも顔を揃えている。
数字的根拠はないものの、この国においても、下は中学生から、上はその頃30代半ばだった団塊の世代までの一定層にとって、ライヴ・エイドはそれなりに大きな関心事だったと考えることができよう。特に団塊の世代にとっては、“あのウッドストックの再現”的な位置づけだった。
だからこそ、テレビでは絶頂期を迎えていたフジテレビが、ラジオでは系列のニッポン放送が、レギュラー番組をふっ飛ばして、半日以上にわたる長時間の中継をしたのである。特にラジオのほうは、もともと洋楽との相性がよく、加えてニッポン放送にはチャリティ番組の実績が豊富だったこともあり、今日的視点で見ても特筆すべき破綻は少ない。
しかし、問題はテレビなのである。これが、今なら“大炎上必至案件”だったのだ……。
無知な司会者のグダグダ進行にブーイング
フジテレビは、7月13日の21時から翌日の正午まで異例の特別編成で対応した。番組名は、『THE・地球・CONCERT LIVE AID』。タイトルからもわかる通り、そこには日本独自の、フジテレビ流の“味付け”がなされた。
純粋にロンドンとフィラデルフィアのステージのみを放送するのではなく、フジテレビのスタジオに司会者を置き、「次は○○で~す!」「いやあ、すごかったですね!」といったコメントをはさむスタイルが取られたのだ。地上波民放のスポーツ中継番組で、競技の前後に、スタジオにいるタレントやアナウンサーのトークが放送される、あの感覚に近いだろう。
ただし、エチオピア飢饉の悲惨さを訴え、視聴者からも募金を募るなど、基本的にはイベントの趣旨に沿ったスタンスは保たれた。司会は故・逸見政孝と南こうせつ。逸見は当時、フジテレビの夕方のニュース番組のキャスターを務めるアナウンサーだったが、いかんせん洋楽に関する知識が乏しく、むしろそれを自虐的なネタにしたり、無知からのトンチンカンな発言を連発し不興を買った。
1985年のテレビ界には、テレビ朝日の洋楽番組『ベストヒットUSA』の顔である小林克也を例外として、司会もできて、日本語と英語が話せて、音楽にも詳しい、のちのジョン・カビラ的、クリス・ペプラー的な、そのポジションにハマりそうな人物がほとんどいなかった。なお、バイリンガルである早見優が、女性アイドルとして唯一、スタジオに呼ばれている。