恋愛ドラマ、なぜウケなくなった?ケータイ普及、若者の恋愛離れという言い訳は本当か?
主要なテレビ番組はほぼすべて視聴し、「週刊新潮」などに連載を持つライター・イラストレーターの吉田潮氏が、忙しいビジネスパーソンのために、観るべきテレビ番組やテレビの“楽しみ方”をお伝えします。
4月25日、フジテレビの亀山千広社長が「若いつくり手たちが恋愛ドラマに興味をなくしている」「恋愛ドラマをつくりづらくなっている」などと発言し、話題を呼んだが、恋愛ドラマがとにかくウケない。
今は「企業モノ」「組織内不和」「逆転劇」がブームで、恋愛は不要コンテンツともいわれる。1対1の人間関係で問われる「個」よりも、やたらと「集団」が描かれるほうが断然多い。個人的に「トレンディドラマ」や「恋愛モノ」にはあまり(というかほとんど)興味がないので、この傾向に憤慨するでもなく寂しいとも思わない。ただし、主にフジテレビやTBSが着実に築いてきた恋愛ドラマブームで育った人々(30代後半~50代前半)は嘆いているらしい。なぜ恋愛モノがウケなくなったのか。
恋愛なんてホントに「こっ恥ずかしくて情けないこと」の連続だ。他人から見れば、実に間抜けな行為である。理性を失ったり、のぼせあがったり、不毛な疑念を抱いたり、不埒な妄想をしたり、傷ついたり、裏切られたり。間抜け上等、それが恋愛である。また、不倫も略奪愛も同性愛も駆け落ちも腹上死も心中も、立派な恋愛である。
往年の恋愛ドラマでは、こうした愛の形(負の部分も含め)を猪突猛進で追い求めればよかった。『東京ラブストーリー』(1991年)、『101回目のプロポーズ』(同)、『あすなろ白書』(93年/いずれもフジテレビ系)や『想い出にかわるまで』(90年)、『クリスマス・イヴ』(同)、『高校教師』(93年/いずれもTBS系)あたりまではよかったのだろう。
ところが、このバラエティに富んだ間抜けさの集合体である恋愛が、ドラマで描かれる際にいつの間にか「素敵系」へと美化されてしまった。セックスのセの字もない、不倫どころか奪い合いもない、執着しない・あきらめのいい・素直な人物ばかりが登場してきて、表面的なやりとりで恋愛を表現するようになった。要は「きれいごと」である。
面白くないからウケない
恋愛の根底にある愚かさと間抜けさを絵ヅラにせず、主役をカッコよく見せることばかりに専念しすぎたせいで、つまらない恋愛ドラマが増えてしまった。スポンサーへのごますりなのか、巨大事務所への接待なのか、小うるさいクレーマー視聴者対策なのか、いろいろと事情はあるのだろうけれど、制作側の及び腰が最大の問題だと思う。「携帯電話やらSNSが普及して、すれ違いの恋愛を描きにくくなったから」とか、「若者の絶対的な恋愛離れ」とか、ただの言い訳にすぎない。面白くないからウケない。その一言に尽きる。
リアリティのない恋愛ドラマを見るくらいなら、東海テレビが鼻息荒くつくり出す、ドロドロ&修羅場が定番の昼ドラのほうが面白いもの。「きれいごと」に物足りなさを感じる世代は、イマドキのうすっぺらい恋愛ドラマから離れていくワケだ。
窪美澄原作・タナダユキ監督の映画『ふがいない僕は空を見た』(東京テアトル/2012年)で、印象的なセリフがあった。主人公の高校生が人妻とコスプレセックスを愉しんでいたことがインターネット上で拡散されてしまい、彼の母親が営む助産院のホームページが悪意と嫌がらせで炎上した。それに対して、ベテラン助産師がひと言、吐き捨てる。
「ばかな恋愛したことない人なんて、この世にいるんすかねー」
まさしくそのとおり。恋愛なんて本当にばかばかしくて、恥ずかしいもの以外の何物でもない。葬り去りたい黒歴史は、恋愛につきもの。そこを描かずに惚れた腫れたなんて、嘘くさいに決まっている。そろそろ空気を読むのをやめて、真剣に「ばかな恋愛ドラマ」をつくってほしいと思う。
(文=吉田潮/ライター・イラストレーター)