天才と梅毒…シューベルトもゴッホもニーチェも、神を感じる傑作創作時は梅毒だった
僕は、小学生の時に初めて聴いた時から、そして実際に指揮するようになってからも、毎回、この交響曲に接するたびに、自分が不思議な感覚を持つことに気づいていました。なんだか精神が浮遊しているような、幻の世界の中に音が鳴っているような不思議な感覚です。これは、それ以前のシューベルト作品では感じられない不可思議な感覚であり、『未完成交響曲』最大の魅力でもあります。
シューベルトの病状について、少し調べてみました。1996年1月、国際フランツ・シューベルト研究所機関紙「Brille」に、ハンス・D・キームレ氏が投稿した説によると、『未完成交響曲』を作曲していた時は、梅毒の第1期から第2期への移行期くらいだったようです。この時期であれば、まだ末期症状のような神経障害は生じません。とはいえ、当時の梅毒は“不治の病”とされており、長くは生きることができないといわれていました。そんな悲劇的な状況に対する大きなショック。そして、神に見放されたかのような思いと、半面、神の救いへの渇望。そんなことが入り乱れて、シューベルトは『未完成交響曲』を作曲しましたが、1楽章は彼の苦悩を音楽にし、2楽章では神の救いを音楽にした時点で、これ以上、もう書くことがなくなってしまったのかもしれません。特に、2楽章の最後は、神の光が降りてくるような音楽で終えていますが、すべての苦悩が、音楽によって浄化し、解決した後になって、もう3楽章には続けられなくなったのではないかと、僕は勝手に解釈しています。
それから6年後、彼は31歳という若さで亡くなってしまうのですが、死ぬ前年に作曲した彼の最後の大作ともいえる歌曲集『冬の旅』では、24曲からなる曲集の最後のほうにいくほど、幻想と現実のはざまで作曲したかのような音楽になっていきます。これは、感染後10年くらいで現れる梅毒による神経症状と、当時一般的だった水銀治療による中毒症状が生みだした名作といえるかもしれません。しかし、彼の苦しみのお陰で、後年の我々にとっては“見えない世界を聴かせてくれる”ような、魅力的な音楽として残されています。
そのほかにも、ドイツの大作曲家・シューマンも、梅毒で神経が侵されたといわれています。真相はわかりませんが、若い時から長い間、神経疾患に悩まされていたシューマンは、とうとうおかしくなってしまい、ライン河に飛び込んでしまいます。幸いにも一命をとりとめましたが、それからはずっと精神科病院の中で一生を終えることになりました。一方で、彼の音楽もシューベルトと同じく、独特な世界観を持っており、世界の聴衆の興味を惹きつけ続けています。
画家のゴッホやロートレックも、梅毒による神経症状が引き起こした精神的に不安定な状況の中で、幻覚をもキャンバスに書き込みました。“超人哲学家”のニーチェも、脳梅毒の悪化のため、むしろ精神が昂進し、精神活動が盛んになった10年の間に数々の著作を残したともいわれています。
梅毒は、1942年にペニシリンが実用化されたことで、やっと治療の道が広がりました。今は治療すれば治るようになりましたが、かつての人々は、何が本当の原因かもわからず、神からの罰と考え、おののき耐えながら、死を待つしかなかったのです。そんな苦悩の中で、命を振り絞るように素晴らしい芸術作品を世に残してきた芸術家たち。現在の我々にとっては、残された素晴らしい作品を通じて、彼らの思いを推し量るしかありません。
(文=篠崎靖男/指揮者)