また、日本鉄道では田端~池袋間を結ぶ豊島線の建設も進め、これは1903(明治36)年4月1日に開通している。これは現在の山手線の前身となる路線だが、田端駅に結ぶことで品川、そして横浜方面への貨物ルートを完成させたのである。
山手線の環状運転が始まるまで
こうして田端駅は貨物輸送の重要拠点となり、その発着作業も繁忙になっていく。
当時の貨物輸送は、目的地別に貨車に荷物を搭載、その貨車を仕分けして運ぶ方式が基本となっていた。そのため、中継地点では貨車の組み替えが必須となる。田端駅の場合、山手・東北・常磐方面相互の連絡駅として多くの貨車が集まり、明治末期には1日1,000両以上の貨車を扱っていたという。これは当時の田端駅の設備では限界に近い状態だった。
1906(明治39)年11月1日、日本鉄道は国有化され、田端は国鉄の駅となった。その後、速やかに着手されたのが田端駅の改良である。貨車を効率的に組み替えられるよう、操車場が設けられることになったのだ。
田端駅に隣接して長さ2.6km、幅約300m、面積にして東京ドーム6個以上になる用地が確保され、貨車の操車場が建設された。ここでは貨車仕分けの作業を効率的に行える日本初のハンプ線(構内に勾配を設け、貨車を自走させて仕分ける施設)も導入され、1917(大正6)年3月に竣工している。これで貨車の処理能力は1日あたり約1,600両に拡大された。
田端駅をめぐる改良工事はさらに続く。貨車の操車場に続いて客車の操車場も必要になってきた。増大する輸送量により、上野駅に併設されていた客車留置施設が手狭になってきた。上野駅の改良に合わせて新設移転することになったのだ。
これは田端操車場の東側に東京ドームおよそ5.5個分の用地が確保され、1924(大正13)年から貝塚信号場として一部の運用が始まった。その後も整備が続き、1929(昭和4)年6月には尾久客車区として完成している。
この時、東北本線は客車区を経由するルートも設けられ、さらに客車区のわきには尾久駅も設置された。以後、東北本線の旅客列車はこのルートで運転されるようになる。