たて続けに、川崎市登戸と東京・練馬で無職の中高年者が絡む衝撃的な事件が発生した。「引きこもり」と「8050問題」をセットにした論議が喧しいが、練馬事件のもうひとつの側面は「サイバーとフィジカル」、つまりサイバーの世界に生きている息子、フィジカルがすべての父親の構図と理解できないか。リアルの延長にあったバーチャルがサイバー空間として固定化し、結界の接点でスパークが起きた――とすれば、同じような事件がもっと起こるかもしれない。ITはITなりに「サイバーとフィジカル」を結ぶ回路を探らなければならないだろう。
仮想空間=バーチャルのイメージだが
ITに軸足を置いている筆者は、犯罪や人間心理には門外漢だ。そこで以下は「IT的世相観察」(ITから社会を見る)と理解していただくとして、「サイバーとフィジカル」に思いが至ったのは、同じような事件が過去にあっただろうか、と考えたのがきっかけだった。
新聞やテレビは5月28日の朝、登戸で起こった連続殺傷事件を引き合いに、中高年者の引きこもりに焦点を当てている。人はなぜ引きこもりになってしまうのか、引きこもりの心理はどのようなものなのか、引きこもりを社会に復帰させる方法はあるのか、引きこもりとどう接すればいいか、などと議論されている。
ところでテーマの「サイバーとフィジカル」についてだが、Wikipediaによると「サイバースペース」とは、コンピュータとネットワークが形成するデータ領域を指す。仮想空間というイメージから、バーチャルの同義語として扱われることがあるのだが、実はバーチャルはリアルの延長線上にある概念だ。コンピュータ・グラフィックス(CG)による住宅の3次元パース、古代遺跡の復元予想図などがそれに当たる。
これ対して、サイバーは通信と制御を融合する新しい学問領域名「サイバネティクス」の派生語だ。同じ派生語のひとつにサイボーグがある。最近はサイバー犯罪、サイバーテロ、サイバー攻撃などという言葉をしばしば耳にする。事象がリアルな世界に影響を及ぼすこともあれば、サイバー空間で完了することもある。
一方の「フィジカル」は「物質的」「肉体的」という意味で、対置語は「メンタル」だ。ここ数年、様ざまなモノにマイクロチップやセンサーが組み込まれ、インターネットとつながるようになったことから、IoT(Internet of Things)という言葉が生まれ、IoTがもたらすシステム融合の世界を「CPS(Cyber – Physical System)」と呼ぶようになった。
登戸の殺傷事件は過去に類型がある
登戸の連続殺傷事件は、凶刃を振るった男がその場で自死してしまったので、通学バスを待っていた私立学園の子どもたちを狙ったのか、たまたまだったのか、犯行の動機や背景はわからずじまいだ。しかし報道から得た情報を総合すると、深い絶望感と閉塞感に取り憑かれて死を決意した加害者が、自分をそのように追い詰めた社会に復讐したという構図が浮かび上がる。
その点で、昨年6月の新幹線殺人事件、2008年の土浦無差別殺傷事件、秋葉原通り魔事件、古くは1968年の未成年男子による連続射殺事件に通底する。コミュニケーション力が低かったり、話を聞いてうなずいてくれる人が周りにいなかったりするなかで孤独に陥り、自負心と劣等感、責任感と罪悪感の重圧が引きこもりに追い込んでしまう。
実際、そこまで深刻ではなかったが、筆者も18歳から20歳までの2年間は、昼と夜の時間が逆転し、家から一歩も外出しない日が続いていた。しかし自分はちゃんとしているし、近所の人や友だちと普通に会話ができる、と根拠なく思っていた。今から思えば、自分が報われない(恵まれない)のは世間が理解できない(しようとしない)からだ、と心のどこかで考えていたのだろう。引きこもりに近い状態だったかもしれない。
幸か不幸か「死」を実行する勇気がなく、深夜放送(『パック・イン・ミュージック』や『オールナイトニッポン』)以外に閉じこもれる世界がなかった。というより、閉じこもることができた世界が深夜放送を聞きつつ「物ごとを調べて原稿を書く」ことだったので、それが現在につながっている。そのような人は、たぶんいつの時代でも、どこにでもいる。才能が開けば芸術家になり、暴力的な行動と結びつくと、稀に凶悪犯になることがある。
練馬事件でも加害者が息子、被害者が父親だったら、メディアは「またしても中高年の引きこもりによる事件」と報道しただろう。レッテルを貼ることで関係者は安心し、捜査当局は「家庭内暴力の果てに起こった不幸な事件」ということにして幕を下ろすことができたかもしれない。
レッテル貼りがミスリードにつながる
登戸事件をめぐる報道過熱が冷めやらぬなか、6月1日、東京・練馬の住宅地で、76歳の父親が44歳の息子を包丁で刺して死亡させる事件が発生した。父親は農林水産省の元事務次官、元在チェコ共和国大使というエリート、被害者の息子は無職でネットゲームに熱中する毎日だったという。
報道によると、かねてから被害者の息子は両親に暴力を振るっていた。当日、隣接する小学校では運動会が行われていた。経過は判然としないが、父親が「周囲に迷惑をかけてはいけないと思った」「川崎の20人殺傷事件が頭に浮かんだ」と供述しているという。理論的な思考回路のなかに、いきなり「正義」がすっくと立ち上がった、ということだろうか。「自分の息子が登戸事件のようなことを起こす前に、親の責任として」と決意したのかもしれない。
メディアのインタビューに周辺の住人が「姿を見たことがない」と答えていることから、被害者を引きこもりと推測して、登戸事件との共通性が論じられた。ニュースや情報番組のコメンテーターは、「引きこもりの人がみんな犯罪を犯すような認識が広がらないように、われわれは心しなければならない」というのだが、実際は「引きこもり=犯罪予備軍」の風評を煽っているように見える。
レッテルを貼ると人は安心するのだが、それは自分たちが理解できる範囲で理由付けをしているにすぎない。「フィジカルがすべて」の世界の理屈で“サイバー星人”(サイバー空間でリアルに生きている人たち)をモデル化するのは、ミスリードにつながっていく。20世紀型の引きこもりとは根本的に質が異なるし、「誰かが受け止めてあげれば」のような対策は通じないかもしれないのだ。
44歳の息子は外形的に引きこもりに当たるかもしれないが、ネットゲーム「ドラゴンクエスト10」のなかで「ステラ神DQX」を名乗り、多くの「友だち」(知り合い)がいたことがわかっている。ログインしたままのゲームの中では、30人以上の「友だち」が集まって復活の呪文を唱え、追悼の儀式が行われたとも伝えられる。非現実の仮想世界なのに妙に現実感がある気味の悪さはさておき、彼にとってはそれがまさにリアルだったのではあるまいか。
転機は2009年に登場した初音ミク
また彼はTwitterで、イラストやゲームのデザインのオファーを受けたと語っている。その真偽はともかく、自身の意識において彼は「社会人」だった。「ゲームデザインのセミプロ」を自称したあたりに、マニアックな動画像で生計を立てるユーチューバーのようになりたい、という願望が透けて見える。
総務省の労働力調査によると、就職氷河期を経験した人たちは現在35歳から44歳、1700万人と推定されている。そのうち371万人が非正規雇用、52万人がフリーターだという。バブル経済が崩壊したあと、1993年に社会に出た人たちはさらに多く、今年、その先頭集団は48歳ないし49歳になる。好況を体験することなくバーチャルとリアルの狭間で揺れ、ネット音痴の上司や両親=団塊世代の無理解と向き合ってきた。
世代論ですべてを片付けようとするのはよろしくない。血液型で人を分類するのも同じだが、それは個人の資質や個性の否定につながっていく。ただ、同じ時間に同じ空気を吸ってきた年代ごとに通底する感性や感覚があるのも事実で、その意味で強いて言えば、35歳から49歳まで(これもあまりにざっくりだが)はインターネット第1世代であって、筆者のようなオイルショック世代(社会に出たのが1973~1975年ごろ)と比べれば入手する情報量が格段に違う。
オイルショック世代は「モノがなかった時代」を体験しているし、ぞんざいに扱われることに抵抗感がない。ちょっとした傷はツバを付けて治したし、学校で教師の体罰はザラ、機動隊に追いかけられて一人前というような感覚がある。対して氷河期世代=ネット第1世代は自ら「打たれ弱い」ことを認めつつ、団塊世代やオイルショック世代より知的で繊細だという自負がある(ように見える)。
団塊世代やオイルショック世代には閉じこもる場所がなかったし、閉じこもろうとすると「定員オーバー」「お前が来る場所じゃない」と追い返されたものだった。ところが氷河期世代にはバーチャルな世界があって、誰でもが参加でき、深堀りする悦びがあった。オタクのうちはいいのだが、バーチャルな世界が進化したサイバー空間に取り込まれ、それがリアルになってしまうケースも出てきた、というのが今回の事件の深層ではないだろうか。
サイバー空間でリアルが実現するようになったのは、2009年だ。それまで単なるコンピュータの合成音声(ボーカロイド)にすぎなかった「初音ミク」が、バーチャルな肉体を伴ったリアルなアイドルとして登場した。彼女をプロモーションする芸能事務所がコンサートを開くようになり、バーチャルコンサートのチケットがリアルに販売され、あるいはファン(ネット利用者)がCGで作成した分身(アバター)がネット上を自由に動き回るようになったときと推定できる。
もうひとつのトピックは、11年3月に発生した東日本大震災だ。あのときに発生した大津波は、リアルであるにもかかわらず、あまりの非現実性ゆえにバーチャル感が強かった。リアルとバーチャルが混濁した。スマートフォンと4G通信の普及で、かつては夢物語だった双方向テレビ電話があっけなく実現した。動画像をネット上にアップできるのも夢物語だったし、その動画像にスポンサーがついて生計が立つなどということは想定もしなかった。サイバー世界がリアルにフィジカル世界を動かすようになった。
多様性を認め失敗を許容する社会
バブル経済の崩壊から小泉政権の構造改革、デフレと年収の低下、将来展望の縮小、言い換えと誤魔化しが続く「失われた30年」の間、やむなく派遣や非正規雇用を受け入れ、積極的な選択であったかどうかは別としてフリーターの道を進んだ人も少なくない。収入と生活がそれなりに安定している人たちは両親の介護、不安定な人たちは老いゆく両親と共倒れという不安を抱え込む。
その一方に、馬耳東風のサイバーリアル生活者がいる。彼らにフィジカル世界の理屈を強要することは、軋轢と憎悪を増長し、不幸な事態を招くに違いない。なぜなら現在のフィジカル日本は「ダイバーシティ」「サスティナビリティ」「グローバリズム」を口にしながら「イヤなら出て行け」と指弾し、目先の利益と責任を求め、「日本てスゴイ」を叫んでいる。個々の事情や状況の相違を削り落としてモデル化・抽象化すると、そのような推測になる。
翻って冒頭で触れたCPSは、サイバーとフィジカルが「&」もしくは「+」で結ばれ、その相乗効果が経済成長の原動力となり、社会生活を便利に、豊かにすると考えられている。ここにAI(人工知能)と5G(第5世代通信)が加わると、第4次産業革命が本格的に動きだす。課題はあるにせよ、前向きな取り組みを示す言葉といっていい。ところが今回の事件で、「サイバーとフィジカル」はまったく逆の動きをした。
ITの劇的な進化で成長したサイバー空間は結界を持つようになり、堅固なフレームを持つフィジカル世界との間にバリアができた。それこそSF映画のようなトランスフォーメーションが起こった。独立した2つの空間が、何かをきっかけにぶつかって、スパークが発生した。だが、両者をつなぐインターフェースがあれば衝突は回避されたかもしれない。
IPv6がサイバー空間に奥行きを与え、一定の秩序をもたらしている。IPv6はすべてのモノを受容する――というふうに考えると、人間社会のサイバーとフィジカルを「&」で結ぶモノが見えてくるような気がしないでもない。
IT的世相観察でまとめれば、「多様性を認め失敗を許容するしなやかな社会」「それぞれの立ち位置と役割・能力に応じた仕事と責任を分担する組織」という表現になるのだが、むろん現実はそんなにヤワではない。ブロックチェーンがサイバーの価値をフィジカルと結びつけるように、それとは別の視点=生産性や収益性だけを求めない仕掛けづくりという意味で、ITの役割はまだまだあるように思う。
(文=佃均/フリーライター)