日清戦争での日本軍の第一撃は1894年7月25日、朝鮮の仁川沖合で清国海軍と交戦した、豊島沖の海戦からと一般にはいわれる。ところが実際の実弾発射第一撃は驚くべきことに、朝鮮の首都、漢城(ソウル)の王宮に対してだった。
日本軍は清国軍と砲火を交える前に、王宮である景福宮を正面から攻撃してこれを占領し、国王・高宗を事実上、捕虜とする。豊島沖海戦の2日前、7月23日の未明のことだった。8月1日に出された清国に対する正式な宣戦布告では、日清戦争の目的は朝鮮の独立とうたわれている。ところが実際には、よりによって朝鮮国王が住み、国の政治の中心である王宮の占領から戦争は始まったのである。
近年発見された記録により、王宮占領に関する詳しい事実がわかってきた。最も重要な事実は、占領は日本政府・軍の計画によるものだったことだ。現場の思いつきではなく、日本政府と朝鮮駐在の日本公使、すでに出兵していた日本陸軍部隊など日本を公的に代表する諸機関の緊密な連絡と合意のもとに計画・実行されたのである(中塚明『日本人の明治観をただす』)。
この占領について当時、大鳥圭介朝鮮公使が陸奥宗光外相にあてた公電や、日本政府・軍の公式説明は「朝鮮兵との突発的な衝突から始まり、日本軍はやむをえず応戦、王宮に入って国王を保護した」というものである。ところが真相はすでに述べたとおり、日本政府・軍の周到な計画によるものだった。公電や公式説明は嘘であり、日本政府・軍によって歴史が改竄されたのである。公権力による記録の偽りや捏造という、現代にも及ぶ根深い問題はこのころから存在した。
陸奥外相は、朝鮮の国王を捕虜にして戦争を始めるという強引なやり方について「狡獪手段」(ずるがしこい手段)と回想録で述べている。しかし戦況が日本有利に運び、清国軍に勝った勝ったの歓声が渦巻くようになると、当初のためらいや心配の声は消し飛んでしまう。
加担した知識人とメディア
国民の間に戦争に対する熱狂を生み出すうえで、メディアが果たした役割を無視できない。最大の情報源となったのは新聞だった。従軍記者制度はこの日清戦争から始まったが、従軍した記者の数は66社、114人に及ぶ。記者たちが戦地から競って送る「連戦連勝」の記事は、現代のオリンピック報道と同様に人々を興奮させた。戦争は新聞に部数拡大のチャンスを提供する。「万朝報」は開戦した年の発行部数が1457万部と前年に比べ60%も増え、「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」はどちらも30%前後の伸びを見せた。