軍歌も多くつくられた。日清戦争後まもなく東京帝国大学総長、文部大臣になった外山正一までが「うちころせ大砲で、文明の大敵を、衝き崩せ剣をもて、蛮族の巣窟を、東洋の文明を、進むるは我が力、撃て撃て突け突け、君の為め国の為め」と低俗そのものの歌をつくる。大衆だけでなく、最上級の知識人までが、この近代日本にとって最初の本格的対外戦争に夢中になり、正気を失って熱狂したのである(梅田正己『日本ナショナリズムの歴史 2』)。
前述した日本軍による朝鮮王宮の占領という暴挙は、朝鮮民衆の祖国愛に火をつけた。農繁期が終わる10月下旬、東学農民軍の第2次蜂起が始まる。今回の目的は明確に「抗日」だった。これに対し大本営の川上操六参謀次長は「ことごとく殺戮すべし」と命じる。日本軍の徹底した弾圧により殲滅された農民軍の死者数は3万〜5万人とも推定される。日清戦争での死者数は日本軍1万3000、清国軍3万とされるから、交戦国でないはずの朝鮮の犠牲者が最も多かったことになる。
日清戦争という呼び方では無視されやすいが、これは一種の「日朝戦争」だったといえる(原朗『日清・日露戦争をどう見るか』)。この東学農民戦争については、日本の公刊戦史では完全に隠蔽された。日本の統治時代はもちろん、第二次世界大戦後も軍事独裁政権下では固く封印される。1980年代の韓国民主化の時代を迎え、ようやく研究が着手された。長い間、歴史の闇に封じ込まれてきたのである。
現在、日本政府やその支持者は、元徴用工訴訟や従軍慰安婦問題など昭和戦前期に関する歴史認識をめぐり、韓国への反発を強めている。しかし韓国の対日感情の根底には、明治にさかのぼる日本の軍国主義に対する不信感がある。いたずらに感情的になる前に、明治政府が策謀をめぐらし、隠蔽した最初の対外戦争、日清戦争の真相くらいは知っておきたいものだ。
(文=木村貴/経済ジャーナリスト)