政治介入は2013年の国内選考時点からあった。世界文化遺産の選考を仕切ってきた文化庁の推す「長崎の教会群とキリスト教関連資産」(長崎・熊本県)を降ろし、内閣官房がまとめた「産業革命遺産」と差し替えたのは首相官邸の裁定だった。長崎県や長崎市は「政治介入」だと反発しており、世界文化遺産登録を素直に喜べないでいる。
世界文化遺産の2015年登録に向けた、政治推薦枠1枠をめぐる産業革命遺産と教会群の戦いは熾烈だった。産業革命遺産は鹿児島県が、教会群は長崎県が登録を目指し「九州対立」といわれた。
長崎県の中村法道知事は定例会見で「産業革命遺産の15年登録に反対」と明言。文部科学省に提出した意見書に、長崎県内の産業革命遺産は「審査に堪えうる熟度に達していない」と明記した。隠れキリシタンが長崎市の大浦天主堂で信仰を告白した「信徒発見」から、今年は150年の節目の年になる。教会群は隠れキリシタンが江戸時代から潜伏していた島々で、信徒たちが建立した教会で構成されている。
政治力が結果を左右した。鹿児島から岩手まで8県に及ぶ「オールジャパン態勢」で挑んだ産業革命遺産の地元には、有力政治家が多い。最後は、菅義偉官房長官の裁定で政治決着したといわれている。
幕末の思想家・吉田松陰が主宰した松下村塾(山口県萩市)を産業革命遺産に組み入れたことが決め手になった。同県は安倍晋三首相のお膝元である。薩摩(鹿児島)と長州(山口)の、平成版「薩長連合」が結成されたわけだ。松下村塾と石炭や造船、製鉄など生産施設で構成される産業革命遺産との関係を疑問視する声は多いが、松下村塾が遺産登録の可能性が高かった教会群から推薦をもぎとる切り札になった。産業革命遺産側の作戦勝ちである。
軍艦島
産業革命遺産の象徴が、長崎市の端島(はしま)炭坑。通称、軍艦島である。長崎県と長崎市が産業革命遺産に登録されることに最後まで抵抗したのが、この軍艦島だった。軍艦島は長崎港の南西約19キロに浮かぶ周囲1.2キロの無人島。1890年に三菱社(後の三菱財閥の中核)が採炭を開始した海底炭坑である。1916年には日本初とされる鉄筋コンクリートのアパートが建てられた。高層の建造物が建ち並ぶ島影が長崎で建造された「戦艦土佐」に似ていることから、軍艦島と呼ばれるようになった。
最盛期の60年は5300人が暮らし、人口密度は東京の9倍。74年に閉山して、無人島となり廃墟と化した。三菱マテリアルが所有していたが、01年に高島町(現・長崎市)に無償譲渡された。観光資源にしようと長崎市が見学通路などを整備し、上陸禁止を解除。09年には一部に限って上陸できるようになった。軍艦島は廃墟ファンには知られていたが、産業革命遺産に登録後、各テレビ局が競って放映したため知名度は全国区になった。
長崎県と長崎市が軍艦島の世界登録遺産に難色を示したのは、「現状維持」が義務づけられているからだ。軍艦島のような全体が老朽化する構造物の保存措置をどこまでやればいいのかについて基準はない。
長崎市は国内最古の鉄筋コンクリートの高層アパートについて、現在の技術では保存するのが困難と判断している。維持可能とされる居住地域を復元するには、専門委員会の調査で144億円の費用がかかる。さらに保存のための維持費用負担も発生する。市が負担できる額ではないため、長崎市は軍艦島の世界登録遺産には反対だった。
鹿児島県を除く他の自治体も同様で、観光客集めの効果が期待できないからだ。初年度は話題性から観光客が来ても、古い生産設備ではリピーターを呼び込めない。2年目からは来訪者が急減することを懸念している。
結局、文化庁は16年の世界文化遺産登録候補に「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を推薦した。
女人禁制の島
17年の世界文化遺産の国内候補に「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)が選ばれた。「海の正倉院」と呼ばれる沖ノ島は、古代からのしきたりが今に残る。島に入るときは、浜で衣服を脱ぎ、首まで海につかり、みそぎをしなければならない。冬でも、このしきたりが守られている。島内で見聞きしたことは漏らしてはいけないし、一木一草も持ち帰ることは許されない。
日本で、古代の禁忌が今なお守られている唯一の島で、女人禁制で女性が島に入ることは禁じられている。そのため、沖ノ島の登録は産業革命遺産の時よりも、さらに大きな物議を醸すことも予想されている。
(文=編集部)