関西と関東のつゆの色の違いは、使うしょうゆの種類が違うからであり、さらにいえばだしが違うからである。関東はかつお節を主体にだしを取るのに対し、関西は昆布をメインにすることが多く、それが色の違いにも影響しているわけだ。
その昆布だが、現在、主要な産地として知られるのは北海道だ。天然ものに限れば9割を超えるシェアを誇っている。「日高昆布」や「利尻昆布」など、北海道産の昆布は、全国のスーパーなどで売られる定番商品となっている。
余談だが「昆布」という言葉は、そのまま単語として掲載する英語圏の辞書もあるほどで、化学者の池田菊苗が昆布から抽出して発見した第5の味覚「うま味」ともども、海外に通用する日本発の名詞である。
日本では昔から、寒流のある地域が昆布の産地であったが、江戸時代に入ると、近畿地方も主要な消費地として台頭してくる。その結果、「関西は昆布だし」という、現在に見られる食文化が定着するのだ。それに深く関係していたのが、江戸時代を通じて物産輸送の花形でもあった「北前船(きたまえぶね)」だ。
これは、蝦夷(現在の北海道)と「天下の台所」である大坂(おおざか:現在の大阪)を、日本海経由で結ぶ輸送システムだ。青森県や山形県の酒田市、新潟県、連続テレビ小説『まれ』(NHK)の舞台として注目を集める石川県の輪島市、福井県の敦賀市や島根県の浜田市などの物資集積地を巡り、山口県の下関市から瀬戸内海に入り、兵庫県の神戸市から大坂へ……。
なぜ、この航路が選択されたかというと、日本海沿岸は古来、舟運が盛んだったからだ。「日本海の荒波」というイメージが強い現代人にはピンと来ないかもしれないが、日本海沿岸は、昔から比較的安全に航行できるルートとして認識されていた。
内燃機関や原子力まで使える現代と違い、当時の船は海流や風力、人力に頼るしかなかった。日本海では、その海流が船の往来に適していたのだ。すでに中世では、アイヌとの交易を盛んに行う蝦夷や陸奥国の有力者が、上方(京都や大坂をはじめとする畿内)を相手に商売をしていた。
アイヌがもたらす物産は、どれも上方や江戸では目にすることができない珍奇なものばかりだったという。そして、そのなかに昆布もあった。当時は養殖技術がないため、漁獲高は現在よりはるかに少なく、そのため希少価値も高かった。後には、幕府の肝いりで生産高アップのための施策が採られ、昆布はそれなりに安価でおいしい食材という立場を手にする。
大坂で熟成が進んだ昆布
昆布は腐敗防止のために、今と同じように乾燥させて運搬されたが、大坂は蝦夷に比べて高温多湿だ。これが、昆布にとってはラッキーだった。熟成が進み、おいしさがアップしたおかげで、畿内はおろか、江戸にも昆布のおいしさが広まっていく。
そして、昆布の旅路の終着駅・大坂では、大量に届いた、うま味を増した昆布でだしを取るという食文化が発達していくわけだ。
北海道の松前漬けをはじめ、とろろ昆布や昆布締め、昆布の佃煮といった郷土料理は、日本海沿岸に集中している。これも、北前船のおかげで、昆布という食材に触れやすかった地域が、独自に昆布のおいしい食べ方を育んできた結果だ。
ちなみに、北前船が制度化する以前の中世は、現在の青森県に存在した「十三湊」が一大集積地として機能していた。江戸時代になると、その役目は敦賀に移ったが、これは目端が利く近江商人が、蝦夷開発による大儲けをしていたためである。敦賀は琵琶湖を挟んで京都と大坂の対岸にあり、畿内と日本海を結ぶ最短ルートでもあったからだ。
(文=熊谷充晃/歴史探究家)