日本最大級の指定暴力団・山口組の分裂以降、出版業界は“ヤクザバブル”に沸いている。実話系の雑誌は軒並み売り上げを伸ばし、一般誌もこぞって山口組の特集を掲載するほか、ヤクザ関連の書籍も好調だ。世間の関心の高さがうかがえるといえる。
そんな中、異彩を放つ“奇書”がある。元広域指定暴力団二次団体特別参与の瀧島祐介氏が今年9月に上梓した『獄中で聴いたイエスタデイ』(鉄人社)だ。同書の中で、瀧島氏は元ビートルズのポール・マッカートニー氏との“獄中交流”を綴っている。
1980年1月16日、ポールは当時所属していたロックバンド・ウイングスの日本公演のために家族と来日した。しかし、大麻不法所持容疑で逮捕され、警視庁の留置場に移送される。
その頃、フィリピン・マニラの拳銃密輸事件にからみ、仲間1人を射殺した極道が留置場に勾留されていた。その人物が、同書の著者である瀧島氏だ。瀧島氏は翌朝、2階の一角にある運動場でポールと出会い、初めて言葉を交わしたという。そこから、9日間にわたる瀧島氏とポールの心の交流が始まる――。(以下、同書より引用)
雑居房で「イエスタデイ」を歌うポール
そう言えばこんなこともあった。ポールは当時、2番の雑居房にいた。他方、私が詰め込まれていたのは5番の雑居房。壁と廊下に隔てられているため、お互いの様子はわからないが、2番と5番は距離にして数メートルという近さだった。
ポールの出所前日の80年1月26日の夜7時頃、私は2番のポールに向けて叫んだのである。
「ポール! イエスタデイ、プリーズ!」
私はポール作曲の『イエスタデイ』を歌うように促したのである。もちろん壁越しに会話することは禁止されているが、すでにポールのファンになっていた私は、彼が帰国する前にどうしてもその歌を聞いておきたかったのだ。
時刻は就寝前の自由時間だ。きっと彼は起きているだろう。果たして、彼は歌ってくれるのか。期待に胸を膨らませていたところに、2名の留置所係がすっ飛んできて、「おいおいちょっと」と制された。バレてしまった以上、あきらめるしかないか……。
と、その時、奇跡が起きた。ポールは私の声が聞こえたのだろう。「OK!」と叫んだ直後、冷たい床の板を手と足で叩き、リズムをとり始めたのだ。トントコ、トントコ、トントコ、トントコ――。それから『イエスタデイ』を歌ってくれたのである。
(中略)
そのリズムたるや、最高であった。ポールの透き通るような歌声が体に染み渡り、魂を揺さぶるようだった。この時ばかりは、留置所係の2人も何も言わなかった。当時の警視庁には、“情”があったのである。人を侮辱したり、人を傷つけたりすることにだけは厳しいが、他は大目にみてくれた。
事実、私が「イエスタデイ、プリーズ」と言った時も「おいおい、ちょっと」と彼らは口で言ったが、ポールが歌い始めたらそれを咎めなかった。きっと彼らもポールの歌声を聞きたかったのだろう。
(中略)
私はハッと我にかえった。収容者も留置所係も関係なく、誰もが夢を見ているかのようだった。一曲終わった後、留置場内は拍手喝采だった。
「アンコール! アンコール!」
合唱が鳴り止まない。それは、まさに塀の中のコンサートだった。
(引用終わり)
運動場で親交を深めた瀧島氏とポールは、去り際にこんな言葉を交わしたという。
「ポール、今度遊びに行っていいか」
ポールの答えは「イエス」だった。そして、こう告げたという。
「いいよ。カタギになって遊びに来るのなら、空港まで迎えに行くよ」
宮城刑務所で15年を過ごした瀧島氏は、95年に満期出所した。それから紆余曲折があり、カタギの道を歩む決心をする。十数年後、完全に極道から足を洗ったことを自覚できるようになったある日、瀧島氏はポールに向けて、こんな手紙を書く。(以下、同書より引用)
瀧島氏からポールへの手紙
前略、ご免下さい。
ポールさん、私のような人間から突然の手紙で驚かれたことでしょう。私は32年前にポールさんと警視庁の留置場の中でお会いして少しだけ話させてもらった、瀧島祐介という者です。
貴方がいつかイギリスでインタビューの際「殺人犯の男と友達になった」という、その男です。貴方が1980年1月16日に警視庁に来て、その翌朝8時ごろ運動をかねたタバコの時間に、1つの部屋に集まっていた時、私は貴方に会いお話ししました。貴方は覚えていますか?
(中略)
実は今回、筆を執らせていただいた理由はひとつあります。ポールさんに直接、お会いして、一言お礼を言いたいと考えたからです。私はあれから15年の刑を受けて、1995年3月に満期で出所し、社会に復帰。現在は農家となって、畑を耕す静かな日々を送っています。私が更生することができたのは、ポールさんの歌を聞いたからです。ですから直接、あなたに会って、改めて感謝のことばを伝えたいのです。
(引用終わり)
この後、瀧島氏の思いがポールに届いたか否かは、実際に同書を読んでいただきたい。そこには人生の不思議があり、多くの読者の共感を呼ぶはずだ。
犯した罪と向き合い、重い十字架を背負い、第二の人生を歩み始めた瀧島氏。長い贖罪の日々を支えたのは、絶望の淵で聴いたポールの歌だったという。出所から20余年がたった今、瀧島氏は関東近郊の田舎町で農家として暮らしている。
10月中旬、記者は瀧島氏を訪ねた。広大な畑の外れに建てた作業小屋だ。ラジオからは、『NHKのど自慢』の鐘が鳴り響いている。
「本を書いたからといって、自慢するようなものと違うからな。更正した、更正したと声高に言うのも違う気がするし……」
そう自重しながら、瀧島氏は相好を崩した。
「出版社を通じて、読者から手紙が届いたそうなんです。何かの罪で子供が刑務所に入っている、母親からの手紙でした。そこには『息子に読ませてあげたい。感動しました』と書いてありました。罪を抱えた母親からも反響があるというのは、正直うれしいですね」
瀧島氏が、当時を振り返って言う。
「当時、私が入っていたのは雑居房。ポールのファンが警視庁を取り囲み、『ポール、ポール!』と黄色い声援を上げていました。それが獄中にも聞こえてくるんです。その時、私はイエスタデイが思い浮かび、大きい声で『イエスタデイ、プリーズ!』と叫んだんです。殺人容疑で逮捕されて、この世の終わりというくらいに落ち込んだ日々。でも、私はその歌声で救われたんです」
極道、ポール、マル暴刑事の奇妙な関係
これには、後日談があるという。
「その当時、たまたま私と地元が一緒の留置所係がいて『ポールにサインをもらって』と頼んだんです。彼は『じゃ、行ってくっか』って言って、書いてもらってきた。当時は、そんなおおらかな時代。でも、後々にそれが警視庁上層部にバレて、彼は部署を飛ばされてしまったんですよ」
それから時は流れて、13年11月、約11年ぶりのポール来日――。前述のように、ポールに会って直接お礼を言いたいと考えていた瀧島氏は、彼の歌を聴きつつ、自分の思いを遂げるため、公演が行われる東京ドームに向かったという。
「二度目のアンコールでポールが歌ってくれたのが、私を救ってくれたイエスタデイでした。ポールはその間、一滴の水も飲まずに30曲以上を歌い上げていた。今まで気合の入ったゴロツキは何人も見ているが、あんな根性モンはいませんよ。ポールに会えたかどうかは、本のタネ明かしになるので控えますが、ずいぶん苦労しましたね。それくらい、彼は私にとって大切な存在なんです」
瀧島氏には、ポールのほかに感謝する人物がもう1人いるという。瀧島氏を逮捕し、後にカタギになることを後押しした警視庁マル暴(暴力団担当)の刑事「ザキさん」だ。
同書で描かれる瀧島氏の極道時代のエピソードは壮絶の一言だが、ザキさんは、そんな瀧島氏に対して、カタギになることを根気強く説得したという。
「今でも交流がありますよ。2日に1回くらい電話があり、『元気でやっとるか』と。逮捕された当時、私は取調室でザキさんに『あんた、エリオット・ネスみたいだな』と言ったことがあったんです。エリオットとは、映画『アンタッチャブル』(パラマウント映画)の主人公で、弱きを助け強きをくじく名刑事です。アメリカのギャングのアル・カポネの逮捕に貢献した、実在する人物です。エリオットと同じように、ザキさんは本当に腹が据わった刑事ですよ」
取材の終わり頃、瀧島氏は畑で穫れた里芋とかぼちゃを記者に持たせてくれた。
「俺はな、生き物は殺さないんだ、絶対に」
そう言いながら、かぼちゃの葉にはいつくばるバッタの親子を見つけ、屈託なく笑った。トラクターで畑を耕す時、地面には大量のバッタがいるが、轢くことがないようにすべて逃がしてから作業を進めるのだという。
「自分の手で追っ払って、バッタが逃げていってから、トラクターで土を耕すんです。もちろん、中には巻き込まれて死んでしまうバッタもいるけど、せめて最小限に食い止めたいんですよ。昆虫だって命ある生き物だから、殺されることは望んでないでしょう」
36年前に殺人を犯し、ポールとの出会いによって、カタギになることを決意した瀧島氏。更正への長く険しい道は、76歳になった今も続いているのかもしれない。
(文=編集部)
『獄中で聴いたイエスタデイ』 本書は、警視庁の留置所でポールと出会い、彼の歌を聴いたことがきっかけで更生した殺人犯・瀧島祐介の手記です。ヤクザが堅気になることの難しさ、犯罪者に向けられる世間の目、信じられる人の存在、贖罪の日々…。ポールと瀧島の人生を交互に描きながら、一人の人間の再生への道を克明に記録した、衝撃のノンフィクション!