住む家も食べ物もない、風呂も入れない…簡単に「生活困窮者」へ転落する日本
ブラック企業が横行する日本。これでは、安倍晋三政権が掲げる日本再興戦略「JAPAN is BACK」 ならぬ「JAPAN is BLACK」ではないか。しかし、そんな暗闇に満ちた社会で一生懸命に働く当事者たちはまぶしい光を放っている。本連載では慶應義塾大学経済学部教授の金子勝氏が、そんな当事者の人びとにスポットを当てて、ブラックな社会の実態に迫る。
今回金子氏は、静岡で生活困窮者の支援を中心に活動を行いマスコミにも注目されているNPO法人POPOLO事務局長の鈴木和樹氏に、
・生活保護を受けていた幼少期とブラック派遣会社で働いていた過去
・NPOで生活困窮者を支援するに至った経緯
などについて話を聞いた。
ブラック派遣会社の実態
金子勝氏(以下、金子) 現在は、生活困窮者のための住居支援の「富士POPOLOハウス」、食糧支援の「フードバンクふじのくに」などの運営にかかわる鈴木さんですが、そこに至ったきっかけはどのようなものだったのですか?
鈴木和樹氏(以下、鈴木) 私は静岡生まれ、ほぼ静岡育ちです。幼少期に両親が離婚をして、父方の祖母や叔母の世話になり、生活保護を受けて育ちました。当時はいろいろと嫌な思いをした体験もあります。高校卒業後、アルバイトで貯めた金で一発当ててやろうと思って東京に出ました。高校時代はバンド活動もしていたのでバンドメンバーだった友人を「東京で成功しようぜ」と誘い、音楽の専門学校に入りました。しかし、東京では専門学校にも行かずにパチスロに通っていました。思いのほか儲かり、東京から2年で静岡に戻って、その後も1年半くらいパチプロをしていました。
2000年代中盤には、パチプロのかたわら派遣営業の仕事もしていました。インターネットプロバイダや有線の営業です。くじをひいてもらって「当たりました!」などと営業をするのですが、そもそも当たりしか入っていないのです。そんな営業をしていましたが、成績が良かったので派遣会社から正社員にならないかと誘われて、正社員になりました。
ところが正社員になると、新潟支店へ転勤になりました。支店といっても、支店長にされた私とアルバイトの2人だけです。事務所兼住宅だったので、朝の6時から電話が鳴り、その日の仕事の手配が終わるのが深夜1時というハードな生活でした。
また、そもそも広告で求人をするのですが、これは釣り広告で、実際には募集した内容の仕事はありません。2005~06年でしたが、その当時は新潟でも中高年の男性が仕事を探しに面接に来ていました。そのような働き盛りの人々に紹介する仕事はなく、とても心苦しかったのを覚えています。