文科省肝いりの大学入試改革で、現在のセンター試験は廃止され、2021年から「大学入学共通テスト」が導入される。しかし、今回の入試改革を象徴するはずであった自民党主導の民間英語試験の導入が、萩生田光一文科相の「身の丈」発言で頓挫した。
強い政治主導で導入が進められた民間英語試験の杜撰さは多方面から指摘されているが、TOEICを運営する「国際ビジネスコミュニケーション協会」は7月に参加を取り下げることを発表している。実際に今回の民間英語試験は、受験生にとって公平ではないという指摘は的確である。その理由は朝日新聞記者の刀祢館正明氏の論考が詳しい。
・8月28日付「論座」記事『大学の英語入試に「異議あり」(上)(下)』。
その後、下村博文元文科相が東京大学に民間試験を採用するよう圧力をかけたと報じられた。試験導入は大学が判断すべきものであり、下村氏の発言は驕りでもあり、大学の自治という観点からしても明らかに逸脱している。
「大学入学共通テスト」で導入予定だった国語と数学の記述式問題も、導入延長が検討されることとなったが、その採点方法をめぐっても文科省の杜撰さが露呈している。採点はベネッセの関連会社に委託されることになっており、ベネッセは一昨年に文科省が行った「プレテスト」の記述式問題の採点関連業務を担当していた。その同社が、自社が採点業務の委託を受けることを自社の模試の宣伝に利用し、資料を高校教諭に配布していたことが判明した。文科省は厳重に抗議したが、同省の管理不十分といえよう。
露呈した大学の本音
文科省は問題や解答の漏洩のリスクを指摘されると、民間委託業者の採点担当者に住民票の提出を求めるとしたが、まるで付け焼刃のお笑いネタである。そもそも採点担当者が公平に採点できるのかが怪しい。実際、国語の記述式問題を合否判定などに利用する私立大学は36%にとどまる。
また、導入延期となった民間英語試験を採用する予定としていたのは、国立大は95%、公立大は86%、私立大は65%に上るが、文科省が導入延期を発表すると、なんと国公立大学の8割が採用見送りを表明した。「独自に成績を提出してもらい、集計するのは困難」だとその理由を説明しているが、それは表向きの説明で、当初から採用には後ろ向きだったものの文科省の方針にやむを得ず従っていたという実態が透けて見える。
そもそも民間業者のアルバイトに採点を任せられるならば、大学入試の採点を現在慣行として認められていない大学の事務方に任せてもよいのではないか。さらにいえば、民間業者のアルバイトに採点を任すなら、いっそのこと予備校の模擬テストの成績を各大学で入試の代わりに使わせたほうが、税金の無駄遣いも避けられてよいのではないか。もっとも、文科省の威信も権益も低下するので認めるわけもないであろうが。
英語民間試験で評価されるはずであった「読む・聞く・話す・書く」の4技能であるが、20~23年度に実施される入試では、これまでと同様に「読む」「聞く」の2技能に留まり、改革の目玉である「話す」「書く」はなくなった。ベネッセが批判の標的となり、文科省との癒着や利権が指摘されているが、掘れば掘るほど怪しい情報が出てくるというお決まりの流れになっている。
大学教育の質を高める
ここで少し深謀遠慮をしてみたい。現在のセンター入試を採用しているのは、主に国公立大学であり、私立大学のなかにもセンター試験を採用する大学もあるという状況だ。この状況は共通テストになっても変わらないであろう。国公立大学の学生数は、全大学生のうち約25%である。つまり、共通テストの導入は、全大学生の25%にフォーカスした改革と捉えることができる。
現在、上位の大学が抱える問題は、個々の学生の能力を伸ばし、グローバルに競える人材を育成できていないことである。これは英語だけの問題ではなく、各大学の入試制度、教育、特に教員の質の問題であり、「思考力・判断力・表現力」に重点を置いた共通テスト導入で解決できる問題ではない。大学改革のほうこそ重要である。
大学でグローバル社会で競える人材を育成するためには、上位大学のレベルを上げる必要があり、そのためには大学教育における多様性と自由度を高めることが必要である。よって、正規分布を基にする平均的モデルでしか考えられない文科省がしゃしゃり出るのは、百害あって一利なしである。最近聞かなくなったが、文科省が選別した大学の国際化を目指す「スーパーグローバル大学」という取り組みがあったが、大きな成果はあったのだろうか。
文科省の積極的な認可のお陰で、日本には現在800校近くの大学があるが、今の大学生を見るに、「思考力・判断力・表現力」以前の学力に問題があるのではないか。それでも卒業させろというのが文科省のお達しである。大学に入る前提の学力がない学生を入学させ、その低学力の底上げの責任は大学にあるというなら、もはや大学は高等教育機関とはいえない。大学は留年生を多く出すと受験生に敬遠され、文科省からもお目玉を頂くので、とにかく学生を進級させ卒業させる。文科省のやっていることは「なんでもいいから卒業させろ」といって大卒という学位を粗製乱造しているようなものだ。
この状況は、「Fランク」といわれる下位の大学では深刻である。少子化も手伝い、19年入学での私大の定員割れは194校で、全体の33%に上っている。定員割れの私大数は3年連続で減少しており、これを文科省が定員超過の私大への対応を厳格化した成果としているが、そもそも定員割れが起こる原因は、受験生からみてその大学に魅力がないためであり、大学の自助努力ではなく、定員厳格化という名のもとに魅力のある大学の学生数を減らして数字のつじつまを合わせるのは、いかにも問題の根幹を見て見ないふりをする官僚の“数字合わせ的な政策”である。
問題の所在は、下位の大学に行くほど、一般入試を受けずに、AO入試、指定校推薦、公募推薦などで入学する学生が増えていることにある。
下位の大学からすれば、学生はお客さん(=経営資源)なので、とにかく多くの学生に入学してもらうことが重要になる。そうすれば文科省から私学助成金が支給されるからである。あとは、卒業させることが重要で、学生の育成責任には興味がない。一部の資格取得に主眼を置く専門学校的大学では試験合格率が重要なので、国家試験の合格ラインに満たない学生には試験を受けさせないなど、かなり厳しい教育を行っているようだが、それは例外であろう。
高校での教育課程の成果を担保すべき
このように、大学が増える一方で、大学卒業者の質の低下が止まらない。やはり卒業要件を厳しくするべきであろう。英語の「書く」「話す」を多大なコストをかけて「共通テスト」で測るまでもなく、1年次で一定のレベルに達しなければ2年次に進級させなければよいだけである。
フランスでは、高校卒業前にバカロレアという大学入学用の共通試験がある。それに合格すれば、大学に志願でき、概ね志望大学に入学できる仕組みになっている。受験競争が厳しいのは、グランゼコールと呼ばれる高等職業訓練学校である。つまり、バカロレアを通じて大学進学者の選抜の品質を維持しているわけである。
一方、進級用件はそれなりに厳しい。フランスの大学は3年で終了するが、16年の政府統計によると、大学生の約3分の1が1年次で留年し、入学後3年以内に3年生に進級できるのは3割に満たない。ちなみにフランスの大学の学費は無料で、それに加えて国から奨学金が支給されるが、それでも学生の生活は厳しく、生活のために働いている学生も多く、それが留年率が高い一因ともいわれている。ちなみにこの高い留年率を受けて、マクロン政権は、入試制度の改革を現在実行中である。
日本で、もし3分の1も留年させようものなら、社会的に大変なことになるだろう。進級要件を厳格化しようとしても、一部の大学だけが行えば不利益を被ることになるので、大学の足並みを揃える必要がある。そもそも3分の1の学生が卒業できないとなれば、現在の新卒一括採用制度は崩壊する。
このように卒業要件の厳格化が現実的ではないとすると、文科省が注力すべきは入試改革でも上位の大学にいらぬお節介をすることでもなく、高校における学習の質をいかに担保するかであろう。これは、安易に大学を認可した文科省の製造責任である。現在の制度では、よほど欠席でもしない限り、3年間の教育の成果を問われることなく卒業し、高卒の資格を得られる。
そこで筆者は、高卒資格を取得するために、高校生全員に高卒検定試験の受験を義務付けてはどうかと考える。合格者に高卒資格を与え、大学受験資格を与える。大学に行くか行かないかは本人の自由である。必要であれば、合否だけではなくレベルをつけて、大学受験の際のスクリーニングの補助にすればよい。求められる才能が多岐にわたる多様化する社会にあっては、偏差値序列の意味合いは薄れるので、2次試験は各大学の大胆な工夫に任せるべきであろう。英語試験にTOEFLや英検などの民間試験を使うのは、各大学の判断に任すべきである。文科省に求められるのは、高校での教育課程の成果を担保することである。
この試験のベースは、現在の高等学校卒業程度認定試験(旧大学入学資格検定)になるだろう。数学も含まれるので、経団連の「数学を全学生必修に」という主張にもかなう。数学は現実的に微積と線形代数は必要になるので、数Ⅱまで含めるとよいのではないか。これを行うとかなりの不合格者が出て、日本の中卒率が急激に上がるので、文科省は怖くて実行しないのではないか。
問題の所在がわかっていても、自己保身が働く日本の官僚制度と権益前提の自民党政治では、問題を解決することはせず、体裁を整えることに始終し、抜本的な改革を行うことはできない。掛け声とは裏腹に世界から周回遅れの事態が進むのである。残念ながら、教育もその例に漏れない。
(文=小笠原泰/明治大学国際日本学部教授)