高齢者の交通事故裁判で珍しい執行猶予付き罰金刑 控訴で被告人が望んだ禁固刑下る
事件数で8600件ほどの裁判を私は傍聴してきた。無罪判決にはもう驚かない。無罪よりもっと珍しい判決、報道されない重要事件にこそ私は興奮する。今回は、最も心に残る、極めて珍しいケースをお話ししよう。
2010年の3月、私は東京簡裁で「自動車運転過失傷害」、略して自過傷の判決を傍聴した。被告人は70歳くらいのお爺ちゃん。失礼ながら裕福とは程遠い印象だ。
自過傷の法定刑は「7年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金」。裁判所法の規定により、簡裁は自過傷に罰金刑しか科すことができない。自過傷が簡裁の法廷へ出てきたということは、これは罰金刑の事件なのである。しかし罰金刑は通常、略式の裁判で処理する。略式は法廷を開かない。自過傷が正式な裁判の法廷へ出てくることは滅多にない。
出てくるのはほとんど、いったん略式で罰金の支払い命令を受け、「罰金が高すぎる」などの理由で被告人自ら正式裁判を請求した事件だ。そういうのを私はだいぶ傍聴してきた。が、よほどの事情でもない限り減額は叶わない。減額されてもごくわずかだ。
さて、お爺ちゃんに対する判決はこうだった。
裁判官「主文、被告人を罰金50万円に処する。その罰金を完納できないときは、金5000円を1日に換算した期間、被告人を労役場に留置する」
50万円は大金だ。お爺ちゃんは100日間、労役場へ行くことになるのか。だが、続きがあった。
裁判官「この裁判が確定した日から3年間、その刑の執行を猶予する」
私は腰を抜かしそうなほど驚いた。2009年の司法統計によれば、全国の地裁と簡裁を合わせて無罪は85件、罰金の執行猶予は7件。無罪より12倍も珍しい罰金の執行猶予判決に偶然遭遇したのだ。
いったいどんな事故だったのか。裁判官が判決理由を述べ始めた。以下、メモしきれなかったところは「…」でつなぐ。
裁判官「…右折する際、交差点出口の横断歩道を横断する老婆の発見が遅れて衝突、転倒させ…右上腕骨骨折等により入院加療77日間を要する傷害を負わせ…」
けっこう重傷だ。量刑相場からして罰金50万円は仕方ないところだろう。
裁判官「しかしながら、これほど治癒が長引いたのは被害者が老齢だったことが…被告人は熱心に見舞い、被害者は処罰を求めていない…治療費等は任意保険等で十分まかなわれる見込み…すでに免許取消処分となっており、前科はない…平成21年度の納税額はゼロ…内妻の月収は7万円…ほかに援助者が見当たらない…」
そしてこう述べた。
裁判官「100日間の労役場留置は、被告人の健康および73歳になる内妻の生活にも大きな影響を与えると思われる…」
これはとんでもない判決である。「罰金は検察庁と相談して分割で払えばいい。どうしても払えない分だけ労役場へ行けばいい」「内妻が困ったら福祉の世話になればいい」「とにかくこっちは量刑相場を守る」というのが裁判所的な考え方なのだ。罰金の執行猶予とは、いやはやなんとも思い切った判決である。
この裁判官は虎井寧夫さんだ。福岡高裁の部総括判事を65歳で定年退官、おそらくは裁判が好きで、定年70歳の簡裁判事になった人だ。こんな判決は、地裁の若いエリート裁判官には到底できないだろう。私は大いに感動した。
検察は罰金の実刑を求めて控訴
それから3カ月半後、東京高裁の開廷表に見覚えがある被告人氏名を見つけた。事件は自過傷。なんだろう。傍聴してみた。裁判官は3人。真ん中の裁判長がまず言った。
裁判長「検察官は控訴趣意書を陳述…弁護人は答弁書を陳述…」
それら書面の提出を確認して陳述に代えるという意味だ。検察官が控訴趣意書を陳述ということは、検察官が控訴したわけだ。それは珍しい。なぜなら、検察官が“反発”するような判決を一審の裁判官は普通しないから。
審理が進むにつれ、私はぎょっとなった。これは簡裁で執行猶予付き罰金刑とされた、あの事件だと気が付いた。検察はどうしても許せず、罰金の実刑を求めて控訴したのだった。
被告人と同様、弁護人もだいぶ高齢で耳が遠く、しかしやたらと迫力のある人だった。被告人の体の具合が本当によくないことを裁判官に見せたいと申し出た。
裁判長「許可いたします」
ちなみにこの裁判長は矢村宏さんだ。色黒で、容貌も話し方も土建業の親方のよう。なかなか味わいのある人だ。弁護人は被告人を証言台のところに立たせ、「体の具合」を裁判長らに見せるよう言った。被告人はカチャカチャとベルトを外してズボンを脱ぎ始めた。
裁判長「女性の前だからね(笑)」
被告人の目の前には女性書記官が、驚いた顔で座っている。傍聴席からはまったく見えなかったが、被告人の腹部のあたりにヘルペス(帯状疱疹)があるらしい。弁護人は被告人のそばへ出てきて、被告人の足をぐいっと持ち上げた。
弁護人「こんなんなってるんです! 指もっ!」
なるほど、足がひどく浮腫み、爪が剥がれかけているようだ。
被告人「今、背中からブロック注射を週に2回、1回1580円…このアレが痛むんです。血糖値は300で…」
弁護人「(医師は)死んじゃうって、言わない?」
被告人「気をつけろ、とは…」
弁護人「奥さん、もっと悪い。あなた刑務所(※)、入れられちゃったら、奥さん、死ぬかね!」
なんというやりとりだ。
※労役場留置の刑は拘置所や刑務所などの施設で執行される。労役場留置は1日5000円の労働ではない。財産刑を自由刑にかえて執行するにあたり、自由を奪う期間を1日5000円でカウントする。換刑処分という。
より重い禁錮刑はどうかと裁判長が提案
被告人は苦笑した。すると裁判長が、いつもように勢いよく、土建業の親方のようなドスが聞いた声でこう言った。
裁判長「罰金50万円、分割で払えばいいじゃん」
被告人「分割…どのくらい」
裁判長「それは(検察と)相談すればいい。たとえば(労役の)封筒貼りなんか、できるんじゃない? いや、封筒貼りと決まったもんじゃないけどね。そういうのやりたいとは思わない?」
被告人「(困って)え~」
私は傍聴席で、おかしくてたまらなかった。そうして裁判長はこんなことを言いだすのだった。
裁判長「ぶっちゃけた話ね、禁錮刑で執行猶予のほうがいいんじゃないか?」
交通事故の量刑相場の階段はこうなっている。
1、罰金刑の執行猶予(ただし希有)
2、罰金刑の実刑
3、禁錮刑の執行猶予
4、禁錮刑の実刑
貧困な者にとっては、罰金刑の実刑より禁錮刑の執行猶予のほうが断然ありがたい。財布から金が出ることはなく、執行猶予の期間を無事にすごせば刑務所へ行かずにすむのだから。
被告人「じゃ、それ(禁錮刑の執行猶予)でやってもらえれば」
裁判長「いや、そうなるわけじゃないよ(笑)」
私は密かに腹を揺すって笑った。罰金の実刑を飛び越して、いくら猶予付きとはいえ禁錮刑というのはあり得ない。検察官もうつむいて小さく笑っていた。
判決の言い渡しは1カ月後の8月15日とされた。私は旧盆で帰省し、傍聴できなかった。しかしどうも気になり、あとで調べてみた。なんと、原判決破棄、禁錮6月、執行猶予3年。本当に量刑の階段を飛び越したのである。なぜそんな“離れ業”をやってのけたのか。
普通の裁判官なら原判決破棄、罰金の実刑とするはず。せいぜい、一審の求刑の50万円より5万円か10万円下げる程度だろう。だがそれは被告人と内妻の生活に大きなダメージを与える。何より、希有な執行猶予付き罰金刑とした虎井裁判官の心意気を踏みにじることになる。かといって控訴棄却、つまり一審の執行猶予付き罰金刑を維持すれば、検察は最高裁へ上告する可能性がある。最高裁は官僚的だ。量刑相場を守って罰金の実刑とする可能性が高い。ならば、俺が泥をかぶっても、被告人に不利益を与えず、かつ検察に上告させない判決を書いてやろう。そういうことだったのではないか。
簡裁の虎井寧夫裁判官も、高裁の矢村宏裁判長も、被告人と内妻の苦境を思いやり、大胆な判決をやってのけたわけだ。私はちょっと涙が出そうになった。