韓国人観光客が消えた対馬、真っ昼間なのに街は閑散…韓国資本のホテルが開業中止で売却
「行っ得! つしま つしまでお得に癒しましょう」――韓国人観光客の激減を受け、対馬ではこのような宿泊割引キャンペーンが繰り広げられた。
「1人1泊につき、対馬の宿で宿泊料金が3000円分割り引かれる。サービス利用期間は昨年11月から2月末まで。長崎県と対馬市の対策補助金で実現した。この割引サービスもあって、日本人観光客が来るようになった」と対馬市役所の観光課は言う。
日韓関係が急悪化する昨年夏以前、韓国人観光客向けに、韓国の釜山港から対馬北の比田勝港と南の厳原港を結ぶ5つの船便が運航していた。だが、旅客激減から、厳原港に発着する韓国便は昨年8月に全面運休、比田勝港も3便に減便した。
なるほど、厳原の中心部を歩いてみると、真っ昼間なのに静かすぎる。韓国人の観光客らしき団体は見当たらない。市役所前のクリーニング店の店主は、以前は「このへんを韓国人がぞろぞろ歩いて、目の前の武家屋敷の写真を撮っていた」と語った。
近くのメイン通りに、韓国資本が建てたばかりだがオープンできない観光客向けの「セントラルパーク・ホテル」がある。近所の人の話では、韓国人オーナーは開業をあきらめ、売りに出したという。
夕暮れ時、1年前なら韓国人観光客で賑わった小川沿いの飲食街を訪れた。橋のたもとで会った韓国人らしきバックパック姿の若者に英語で声をかけたが、「日本人です」との答え。ハングル語で看板が書かれた居酒屋やバーがひしめく通りを覗いたが、人っ子ひとり歩いていない。
韓国・釜山と船で結ぶ比田勝港を訪れた。
対馬は国防の最前線だ。古代から防人が対馬の地を守ったが、今は陸、海、空の自衛隊が防衛に当たる。うち比田勝より北端寄りの地には、海上自衛隊と航空自衛隊の基地が置かれている。
かつては韓国人が連れ立って歩いた比田勝の土曜日の目抜き通り。人影はまばらで、昼時なのにクローズしているレストランもある。
船が発着するターミナル前の大きな免税店。入ってみると、店員は3人いるのに客は1人もいない。韓国人向けにこしらえた韓国様式の遊覧船は、休業状態で所在なく岸につながれている。
朝鮮侵攻の悪夢
日韓の緊張しやすく解きがたい関係の淵源は、どこにあるのか――。韓国人の日本に対する深い恐怖心・警戒心は、1910(明治43)年から約35年間続いた「日韓併合」のはるか昔の、豊臣秀吉による「朝鮮出兵」にさかのぼる。厳原の図書館にある、長崎県文化振興課が編さんした『国境の島 交流・交易と緊張の歴史』などから、そのへんの事情を詳しく知ることができる。
それによると、天下統一を果たした豊臣秀吉は中国の明王朝の征服を企て、朝鮮国王に征服の先導を命じるが、入朝した国王の使臣たちに拒否される。翌年の1591(天正19)年、秀吉は明征服の決意を表明、肥前の名護屋(今の佐賀県)に本営を置き、壱岐、対馬に築城を命じる一方、諸大名に朝鮮出兵を命じる。
秀吉は翌1592(文禄元)年4月、肥前名護屋に集結させていた軍勢に出撃命令を出す(文禄の役)。15万人あまりの大軍が壱岐、対馬を通過して朝鮮半島の釜山近くに上陸、侵攻した。
注目されるのは、小西行長、加藤清正らの軍勢が釜山城落城から山谷を越え、わずか20日ほどで都の漢城(ソウル)を陥落させたことだ。さらに、1カ月あまりで平壌を占領。一方、加藤清正軍は北上を続け、7月に現・北朝鮮の東北奥で逃走中の朝鮮国王子2人を捕虜にしている。
朝鮮国王は明国との国境沿いに逃れ、宗主国の明に救護の派兵を要請、これにこたえ7月、明軍が派遣される。日本軍は戦いで多数の捕虜を得て日本に連行した。その総数は不明だが、3万とも5万とも言われている。うちかなりの人がポルトガル商人に売られ、海外に連れて行かれたらしい。
その後、明軍を加えた朝鮮軍やゲリラによる反撃、朝鮮水軍の勝利、日本軍の食糧・物資の補給困難などから戦局は一変して休戦に。だが、講和交渉の決裂で、秀吉は1597(慶長2)年、再び朝鮮出兵を行う(慶長の役)。
韓国側を驚かせたのは、日本軍の電撃的な侵攻スピードと鉄砲の威力だ。将兵の勇猛さにも恐れを抱き、当時、朝鮮では加藤清正を挙げて、子どもに「泣きやまないと、清正が来るよ」と脅したと伝えられる。
朝鮮出兵が対馬に与えた影響は大きい。戦争の間、軍勢を動員して出兵したのに加え、中継地として各軍への物資・人夫や通訳の供給を課された。それまでに築いていた朝鮮との友好な通商貿易関係のすべてが途絶え、経済的基盤を失った。
こうした窮状を一転させたのが、徳川家康であった。家康は朝鮮出兵の失敗を認め、対馬の島主、宗義智に朝鮮との国交回復を命じる。困難な交渉の末、1607(慶長12)年、朝鮮使節団の来日に成功、2年後に日朝貿易が再開する。1607年に朝鮮国が送った大使節団は504人にも上った。
使臣たちは、3月に対馬の厳原から入って6月に徳川家康に会い、家康が朝鮮を侵攻する気がないことを確認して家康への信頼を深めている。このとき、韓国人の捕虜1418人が船8隻に分乗して朝鮮国に帰った(志岐隆重著『十二回の朝鮮通信使』)。
以後、江戸時代に12回にわたり朝鮮通信使が対馬を渡って、江戸や日光を訪れた。その間、双方の交易は続いて争いはなく、平和な互恵関係を保った。17世紀後半には、対馬藩の朝鮮貿易は最盛期を迎える。
この歴史的教訓は重要だ。「時の政権」が賢明なら、国は交易拡大を通じて友好関係を保ち、互いに経済的文化的繁栄を享受できる。
「韓国の文政権は反日を煽っている」
大韓民国民団対馬支部スタッフ、黄震夏氏は、日韓の政治リーダーに失望を隠さない。「政治の被害者になるのはいつだって一般の民衆。(対馬への韓国人旅行者が)40万人まで増え、せっかくうまくいっていたのに、政治のせいで急に悪化した」と憤慨する。
黄氏は37歳。16世紀末の秀吉の時代、朝鮮国王の正使を務めた黄允吉(ファンユンギル)の子孫という。日本人女性と結婚し、4歳の長男を持つだけに、日韓関係の現状がひどく心配だ。
「韓国の文政権は政権維持のために反日を煽っている。マスコミは文政権のほうを向いている。政治が入ると、いつも関係が悪くなる。政治が手を出さなければ、自然によくなるのに」
黄氏は、居酒屋で韓国政治についての本音も語った。
問題の根は深いだけに、解決には時間がかかるとみなければならない。朝鮮通信使がもたらした約300年にわたる「交易の歴史」が、重要な教訓を与える。政府は和解に向け、「交易」の平和的作用を念頭に、根気よく自らの考えを伝え、交易の機会を広げ、相互理解を図る。このことが、複雑にねじれた解決の糸を解きほぐす最善の道と思われる。
(文=北沢 栄/ジャーナリスト)