東京都練馬区のとんかつ店で4月30日夜、火災があり、54歳の店主の男性が全身やけどで死亡した。遺書は見つかっていないものの、遺体にはとんかつ油を浴びたような形跡があり、油をかぶって自殺した可能性もある。
この男性は東京オリンピックの聖火ランナーに選ばれていたが、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で大会は延期された。そのうえ、4月7日に政府から緊急事態宣言が発令され、都からも飲食店の時短営業が要請されたことを受け、4月13日から臨時休業に踏み切っている。
こうした状況で、男性は周囲に落胆の色を見せるようになった。「コロナが収まらないと、もうどうやったってだめだ」と先行きを悲観するような言葉を漏らすことも、「店をやめたい」と漏らすこともあった。そのため、元気のない男性のことを心配した商店街関係者が、火災当日の30日に練馬区役所に対応を相談していたという。
これまでの経緯を精神医学的視点から振り返ると、この男性は、抑うつ気分、意欲低下、悲観的思考など、うつ病の典型的な症状を示していたように見える。重症のうつ病患者が先行きを悲観して、「もう生きていてもしようがない。死にたい」と希死念慮を抱くことは決してまれではない。
「レゾンデートル(存在価値)」がないと感じることも自殺の一因
私は、3月24日に掲載されたこの連載で、“コロナ自殺者”急増の懸念を指摘した。とんかつ店主の悲劇的な死は、その懸念が、残念ながら現実のものになる予兆のように見える。
“コロナ自殺者”は今後増えると思われるが、その最大の原因は、もちろん経済的停滞がもたらす休業や失業による経済的損失である。だが、それだけではない。社会や経済の激変に戸惑い、自分には「レゾンデートル(存在価値)」がないように感じて「もう生きていてもしようがない」と思い込むことも一因だろう。
3月にも述べたように、わが国で年間自殺者数が初めて3万人を超えたのは1998年だが、その前年の1997年には山一証券と北海道拓殖銀行が、そして1998年には日本長期信用銀行が相次いで破綻している。この時期に自殺が急増した背景に、終身雇用や年功序列を信じ、会社のために滅私奉公してきたサラリーマンが会社の倒産やリストラに直面して、自分には存在価値がないと感じたことがあるのではないか。
それ以来、年間自殺者数が3万人を超える状態が14年連続して続いた。当時の自殺率は人口10万人当たり約25人で、日本よりも自殺率が高いのは、ロシア、リトアニア、ラトビア、そして韓国くらいだった。韓国は、アカデミー賞を受賞した映画『パラサイト』でも描かれているように超学歴社会かつ超格差社会であることが影響しているのだろう。一方、旧ソ連の国々で自殺率が高かったのは、経済的困窮に加えて、それまで正しいと信じていた共産主義という価値観が崩壊したことが大きいと私は思う。
このような価値観の急激な転換によって自殺が増加するのは、自らの存在価値を見出すのが難しくなることによる。とくにそれまで真面目に頑張ってきた人ほど、「もう自分は必要とされていないのではないか」と自身の存在価値に疑問を抱き、最悪の場合「もう生きていてもしようがない」と思い込むようになる。
新型コロナウイルスの感染拡大は、われわれの価値観をガラリと変えた。しかも、この価値観の激変は、感染が収束した後も続くだろう。だから、同様の悲劇は今後も起きるのではないかと危惧せずにはいられない。
(文=片田珠美/精神科医)
参考文献
公益社団法人日本医師会 (編集)西島英利 (監修)『自殺予防マニュアル【第3版】地域医療を担う医師へのうつ状態・うつ病の早期発見と早期治療のために』明石書店 2014年