父、祷一が長い出版社生活を終えて、敗戦後の昭和23年(1948年)に、株式会社第二書房を設立した。ぼくが駒沢大学の予科1年に入学したときだ。
わが家は姉と妹と二人、男はぼくだけだ。第二書房には社員がいないから、学生時代から父の手伝いをしないわけにはいかなかった。父は出版社は印刷、製本は外注だから事務所を借りる必要はない。机と電話さえあれば自宅でいいという考えだった。
駒沢大学を卒業しても勤めに出るわけにはいかず、父の仕事を継ぐことになってしまった。父が出版する本は堅い本が多かった。
30歳になる頃、父は女狂いをして、出版の仕事を僕にまかせっきりになってしまった。ただし、お金だけはがっちりはなさなかった。
僕は小出版社は、エロ本しかないと考えた。とは言っても有名な作家の本を出せるわけがない。その当時は「週刊文春」「週刊新潮」などの一流週刊誌のほかに、発行部数の少ない二流、三流の週刊誌が数多く出されていた。それらの週刊誌に連載している、有名でない作家が数多くいたのだ。
そこにぼくは目をつけた。新書版で「ナイト・ブックス」と名付けた。ナイトは夜と騎士とをかけあわせたものだ。
第一作目は武野藤介さんの艶話を集めたもので『わいだん読本』と名付けた。そして印税は買切りにした。著者もすでに原稿料をもらっているのと、単行本になることなど考えていなかったので、少しでもお金になればいいと思ったのだろう。
月に1冊ずつ刊行して60冊も出してしまった。清水正二郎さんのものが多く、30冊は出したと思う。清水さんの本はよく売れた。清水さんはエロ本を書くのをやめて、直木賞を取るための小説ばかりを書きはじめ、ついに『黒パン捕虜記』で直木賞をとることができた。
ある日、わが家を訪ねてきた異様な人がいた。スーツからネクタイ、靴まで緑色で、原稿を包んだ風呂敷まで緑色とは驚いた。何の原稿かと思ったら、マスターベーションの正しいやり方を書いたものだという。
あちこちに出版社に売り込みに行ったのだろうが断られて、世田谷の第二書房にまで持ち込んできたのだ。
僕はこの原稿を見て、ひらめくものがあった。今の子供たちは発育がいいから、小学校5、6年生でもマスターベーションするものがいるだろうが、戦後の食べ物のない時代で、僕が大学に入った頃、マスターベーションを覚えてしまった。片想いをしてもやもやしていたからだ。
その当時はマスターベーションをすると、身体に害になると言われていたので、やめよう、やめようと思ってもやめられず悩んでいた。そんなときに『平凡パンチ』だったか医学博士の先生が、マスターベーションをしても身体に害はないという小さな記事を読んだとき、気持が楽になった記憶があった。
結婚したのが早かったので、そんなこと忘れていたが、秋山正美さんのマスターベーションの正しいやり方を書いた原稿を読んで当時のことを思い出し、この原稿を本にしたら、きっと気持ちが楽になるだろうと出版を決意した。
タイトルを『一人ぼっちの性生活=孤独に生きる日々のために』とし、装幀は赤星亮衛さんでしゃれたカットも多く描いてもらった。今見ても古さを感じないカバー絵だ。
なんとこれが売れたのだ。テレビの「イレブンPM」にもとりあげられ、版を重ねた。著のところに数多くの手紙が寄せられた。女性のことを思い浮かべマスターベーションをするものと思っていたが、男が男のことを思ってマスターベーションする人の手紙が目についた。世の中にはこうした男性がいる。僕はひらめくものがあった。悩んでいる男が男を愛するホモと呼ばれる人が数多くいるということを。
秋山正美さんに男が男を愛する人のための本を書けないかと持ちかけたら、秋山さんは書けるという。秋山さんに奥さんはいたのだけれど、子供はいない。今考えるとゲイだったのだろう。そこで書きあげたのが『ホモテクニック 男と男の性生活』だ。
その当時、こんな本はなかったから、よく売れた。ただ本屋で買いにくいので、わが家まで買いに来る人が多かった。その人たちを応接間にあげて話を聞くと、なかなか相手が見つからないという。そこでまた、ぼくはひらめいた。文通欄を入れた雑誌を出そうと。
すでにゲイ関係の単行本を20冊あまり出していた。エロ本からゲイ向けの単行本専門の出版社になっていたのだ。ゲイ向けの本を出す出版社はなかったので、一万人もの読者をつかんでいた。
単行本のあとがきにゲイの雑誌を出したいので協力者をと呼びかけた。すぐさま手紙を送ってくれたのは、間宮浩さんと藤田竜さんだった。このふたりは『風俗奇譚』で小説やエッセイを書いていたが、この雑誌はSMの雑誌でゲイの読物はほんのわずかで、不満を持っていた。
ぜひ、協力したいというので、新宿のマンションにふたりを訪ねた。なんと4月に出会って7月に創刊号を出してしまったのだ。社員が何人もいる出版社だったら、反対する人もいて、ゲイ雑誌なんて出せなかったろう。
第二書房はぼくひとりが決断すればいいことなので、創刊号への道のりは早かった。藤田竜さんは雑誌社を渡り歩いた人なので、企画からデザイン、イラスト、写真と何でもこなせる人だった。
あとは本の取次店が扱ってくれるかだ。大手のトーハンの雑誌仕入課の笹子富士彌さん、この人が扱ってくれなかったら、同性愛の雑誌の創刊は、5年、10年と遅れたに違いない。ゲイ雑誌の恩人というべき人だ。
1万部刷って、トーハンが5千部、ニッパンが千部、あとは中小の取次店に入れた。全国の書店の棚に並べられたのだから、画期的なことだ。笹子さんをくどき落して、扱ってもらった、ぼくの功績は大だ。
地方に住む有能な作家、男絵師らが次々と原稿を送ってくれた。一流の週刊誌も日本初のゲイ雑誌の創刊を報じてくれ、刷部数は号を重ねるごとに増え、文通欄に投稿する読者の数も増え続けて行った。
(文=伊藤文學)