国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長が16日、来日し、菅義偉首相や東京都の小池百合子知事、東京オリンピックパラリンピック競技大会組織委員会の森喜朗会長らと会談し、来年の夏の開催を再確認した。「観客を入れての開催」に関しても、バッハ会長から一定の言質が取れたこともあり、政府関係者も胸をなでおろしつつある。だが、一部の観光、宿泊業者からは「事実上、東京五輪は失敗に終わった。もう、好きにすればいい」と冷めた声が聞かれる。
バッハ会長、都庁で五輪反対派と遭遇
会談後、森会長と共同記者会見をしたバッハ会長だったが、終始不機嫌そうな雰囲気を醸し出していた。というのも、東京都庁の前でバッハ会長は五輪開催に抗議する市民団体に遭遇していたのだ。なぜか大手メディアの会見録では削除されているが、会見でこの件について聞かれたバッハ会長は、不機嫌を隠そうともせず、次のように語った。
「(反対派の)3人が待機していた。私に対して声をあげていたので、対話をはかろうとした。彼らが何を言いたいのか耳をかたむけたいと思った。対話を持ちかけたのだが、受け入れてくれなかった。彼女(抗議者)が何を求めているのか、説明はなかった。ただ叫んでいるだけだった」
外務省関係者は次のように話す。
「バッハ会長をはじめ、IOCの幹部はここ数年、開催地の『五輪反対』運動の存在に頭を悩ませてきました。ブラジル・リオデジャネイロ五輪などを見ればわかりますが、反グローバル主義者や過激な環境保護者主義者が大量に開催地にやってきたり、もともと開催国特有の経済格差や政情不安があったりして地元住民の反対運動が激化することがしばしばありました。そういう事態が発生するたび、IOC幹部は今回のバッハ会長のように『反対のための反対運動が行われている。議論に値しない』との認識を示してきました。
IOCにとって、日本は非常に安全な開催地でした。少なくとも新型コロナウイルス感染症が蔓延するまでは、経費などに関して多少の疑問点はあっても、アスリートファーストの大会開催に異論を唱える国民はほとんどいませんでした。国民が開催に好意的で、開催地の政情が安定していればスポンサーからの出資も集めやすく、IOCにとって最適な開催地だったわけです。しかし、バッハ会長は今回の来日で、これまでの雰囲気との変化を感じ取ったのかもしれません」
一方、同日の会見でバッハ会長が「来年の大会時にはスタジアムに観客を入れることに確信をもつことができた」と発言したことに、喜びを隠せない政府関係者もいた。
経済産業省の関係者は「東京五輪開催は日本経済立て直しの切り札です。もちろん、そのためには無観客では意味がありません。スポーツ業界を中心に、これまでプロ野球などで観客を入れた試合を実施した実績が、バッハ会長らIOCに評価されたことは間違いありません。これで、やっと五輪関係の事業者を救うことができます」と話す。
IOC側の焦りを指摘する報道もある。毎日新聞は17日付朝刊で、記事『五輪湧かず焦るIOC』を掲載した。記事では「政府関係者によると、来日前のバッハ氏はいらだちを隠せなかったという。不満は、日本国内に懐疑論が残り、気運がいっこうに盛り上がらないことにあった」と説明。三菱UFJリサーチ&コンサルティングが9月末に実施した東京五輪へのアンケートなどを紹介し、開催熱が高まっていないことを報じた。
民泊事業者「開催でも中止でも好きにすればいい」
では、かつて東京での五輪開催を熱望していた人たちは、今回のバッハ会長の会見をどのような思いで聞いたのだろうか。都内の民泊用物件を複数運営していた元事業者男性は次のように語った。
「宿泊施設不足を補うために政府が推進していた民泊事業に参入しました。もともと大手メーカーに勤めていたのですが、このチャンスに民泊で大きく稼いで、起業資金にしようと考えていました。退職金と銀行などから融資を受け、東京都内を中心にワンルームマンションなどを十数件借りました。家賃10万円の物件を、宿泊施設として1日5000円~1万円で貸し、一カ月で5~20万円の利益をだすというビジネスモデルでした。
住宅宿泊事業法(民泊新法)では宿泊用の貸し出しは年間180日までです。そのためビジネスとして回していくためには多くの物件を確保し、休業と稼働をうまく組みあわせて運営する必要があり、どうしてもコスト高になり、たくさん宿泊してもらわなければ利益が出ませんでした。しかし、五輪が開催されれば、1泊10~20万円でも需要はあるといわれていたので、それで銀行などの融資分も含めて、返済できると思っていました。SNS上でも五輪に批判的な意見が出るといつも反論して、五輪の開催を訴えていました」
だがコロナ禍で五輪は延期になり、政府の緊急事態宣言が発令され、経営は行き詰った。7月には債務超過に陥り、事業を整理しなければならなくなったという。今は、民泊用物件を借りるために銀行から借りた融資約600万円を返却するため、ビルメンテナンス会社で契約社員として働いている。
「3月以降は宿泊客ゼロがずっと続きました。私だけではなく今年の夏にかけて、多くの同業者が事業を手放したり、自己破産したりしました。
仮に五輪が延期開催されても、既存の大手宿泊施設のキャパシティーを超える来日客があるとは思えません。『Go To トラベル』事業でも、東京の小規模事業者は完全に蚊帳の外でした。もともと隙間産業だった我々にとっては、五輪があろうがなかろうが客がゼロなことに変わりはないのです。もう好きにすればいいと思います。
コロナ禍を予測することは誰にもできなかっただろうし、大会組織委や政府に踊らされたのは『自己責任』ですから、国に補償を求めるようなことはしません。ただ、もう政府や組織委が思い描いたように踊る国民はいないと思いますよ」(前出の元民泊事業者男性)
グッズ事業者「もう国民の心は五輪で一つにはならない」
五輪公式グッズの製造に携わっていたメーカー関係者も話す。
「開催されるからといって今後、東京五輪グッズが爆発的に売れることなんてあるでしょうか。多くの商品が五輪公式ショップで1年以上棚ざらしです。本来であれば、期間限定で販売されているメモリアル商品だからこそ、飛ぶように売れるものです。かといって中止の可能性がゼロではない状況下で、新しい商品を製造するのはリスクが高すぎますし、今ある在庫を全ロスにするのかという大きな問題もあります。
アスリートの皆さんには頑張ってほしいとは思いますが、五輪で我々が豊かになる未来は描けません。どんなに政府や組織委が旗を振っても、国民の全体が五輪で一つになることはないと思いますよ」
五輪の来年開催は本当に日本経済復興の切り札になるのだろうか。IOCや政府は、日本国内に蔓延する“五輪懐疑論”の本質を正しく分析する必要があるのではないか。