福岡市の活気が注目されている。少子高齢化が進む日本は2018年まで9年連続で人口減に見舞われているのに対し、若者を中心に人口が増加中だ。ビジネスも活発で、開業率は日本の大都市でトップとなっている。
福岡の活力を支える要因は、日本の大都市圏で最も短い通勤・通学時間、日本の主要都市で最も安い食料物価などさまざまだが、なんといっても見逃せないのは、アジアとの近さだ。中国・上海までは東京より近く、韓国・釜山までは大阪より近い。この立地の良さから観光やビジネスで訪れる外国人が増加している。
福岡は、奈良・平安時代には遣唐使を博多港から送り出したり、豊臣秀吉や徳川家康の時代には博多の商人たちが朱印船に乗って朝鮮や中国、東南アジアとの貿易に乗り出したりと、歴史的にも貿易を通じたアジアとのつながりが強いことで知られる。じつはそのつながりはさらに古く、弥生時代にまでさかのぼる。
戦後、考古学的な調査の増加と技術の進展により、重要な集落や物流拠点が次々と発見され、日本列島とアジア間の交易ネットワークが復元できるようになってきた。そこから浮かび上がるのは、東アジアの政治の波を受けながらも交易の中心地のひとつとして存在感を示す、現在の福岡を含む九州北部の姿だ。
日本に商業経済と都市文明を持ち込んだ中国人
中国・前漢の武帝が紀元前108年、朝鮮半島に置いた楽浪郡など4郡は中国本土から多くの官吏・商人らが移住する。楽浪郡は現在の北朝鮮の平壌を中心とし、今でも平壌市内を流れる大同江を通じて東アジアの海に開けた海港都市としての性格を持つ。
当時、倭(わ)と呼ばれた紀元前1世紀頃の日本について、中国の歴史書『漢書』地理志は「夫(そ)れ楽浪海中に倭人あり」と記す。倭人の地を、楽浪郡を起点にその「海中」にあるとしたのは、ここが中国王朝の海域世界をにらんだ拠点となったからである(田中史生『国際交易の古代列島』)。
中国の商人が船で日本列島を訪れての交易は、それ以前も細々と続いていたとみられるが、楽浪郡などの設置を境に加速する。前出『漢書』地理志によれば、日本列島に「国」と呼ばれるものが百余りでき、そこから毎年決まった時期に、倭人たちが中国の皇帝に敬意を表しにやって来たという。