秋祭りのシーズンに伴い、馬に乗って走りながら的に向けて矢を放つ流鏑馬(やぶさめ)が全国で盛んに行われている。10月16日、徳川家康を祭る栃木県日光市の日光東照宮で披露された流鏑馬を報じた産経ニュースは「日本の文化はすごい。人馬一体のエネルギー、気迫が感じられた」という観客の談話を紹介した。
狩り装束の射手が馬を走らせる流鏑馬は、この談話にあるように、いかにも日本独自の文化のように見える。しかし、馬に乗る文化はもとから日本にあったものではない。さかのぼっても4世紀末~5世紀初頭以降、海を越えて渡ってきたのである。
考古学の調査によると、日本では古墳時代前期(3世紀中頃〜4世紀後半)の古墳から馬具はまったく出てこない。ところが中期の5世紀になると、突然多くの古墳から馬具が出てくるようになる。それまでの農耕社会に見られなかった乗馬の風習や騎馬文化が急速に普及したことを物語る。
この事実を踏まえた仮説として、かつて脚光を浴びたのが「騎馬民族征服王朝説」である。1949年に東洋考古学者の江上波夫氏が提起したもので、4世紀後半頃、東北アジア系の遊牧騎馬民族が朝鮮半島を経由して日本列島に侵入し、朝廷を樹立したとする。この騎馬民族が打ち立てた朝廷こそ天皇家を中心とする大和朝廷にほかならないと主張し、衝撃を与えた。
しかし今では、この説には否定する見解が有力となっている。社会の大きな変化が王朝の交代のみによって起こったと考えるのは無理があるからだ。
朝鮮半島から日本への技術移転
現在、日本に騎馬文化が伝わった理由として有力視されるのは、当時の東アジア情勢の変化である。3世紀、ユーラシア大陸北方の気候が寒冷化し、これをきっかけに諸民族の移動が活発になる。西方では4世紀後半に遊牧民のフン族が西進したことでゲルマン人の大移動が引き起こされ、これが引き金となってローマ帝国は395年、東西に分裂する。
東方では後漢の滅亡後、三国時代と西晋の統一を経て304年、中央ユーラシアから五胡と呼ばれる遊牧民が中華帝国に侵入して次々に建国するという、動乱の五胡十六国時代が幕を開ける。
民族大移動の波は朝鮮半島にも大きな影響を与える。当時、半島の北から中国の東北部にかけては、騎馬文化の影響を受けた高句麗が強い勢力を持っていた。高句麗は五胡のひとつである鮮卑の建てた前燕に攻撃されて大きな打撃を受け、多くの領土と人民を失う。そこで北で失ったものを南で回復しようとし、南下を進める。