当時半島の南にあった新羅や百済といった国々は、強力な騎馬軍団を持つ高句麗の南下によって国家存亡の危機を迎える。新羅が早くに高句麗に降って生き延びようとしたのに対し、百済はあくまでも軍事的に高句麗に対抗しようとした。そのとき百済が目をつけたのが、当時倭国と呼ばれた日本である。
4世紀半ば過ぎ、百済は倭国と国交を成立させ、倭国は朝鮮半島へ出兵することになった。けれども、実行はそう簡単なことではない。倭人たちはまったく馬を知らないから、まず馬の文化から学ばなければならなかった。
もっとも、百済にとっては自国の存亡がかかっており、当時百済の影響下にあったとみられる加羅(伽耶、加耶、任那ともいう)諸国も同様だった。そのため多くの渡来人を送って倭人たちに馬に関する技術を教えたと、考古学者の白石太一郎氏は推測する(『騎馬文化と古代のイノベーション』)。
多くの渡来人が百済や加羅などから倭国に渡ってきて大規模な牧を造り、馬や馬具の生産技術を教える。こうして馬文化を知らなかった倭国で、馬や馬具の生産が始まった。いわば朝鮮半島から日本への技術移転である。
このとき海を渡ってきた多くの渡来人たちは、単に馬や馬具の生産技術だけではなく、さまざまな優れた生産技術、さらに文字の使用法をはじめ学問、思想なども日本に伝えた。これは古代倭国が東アジアの文明社会の仲間入りをするうえで、大きな役割を果たす。
文化の本質はグローバル
古墳時代に朝鮮半島からの渡来人が騎馬やその他の文化を日本に伝えた形跡は、今でも日本の各地で確かめることができる。意外なことに、地理的に朝鮮半島に近い近畿地方だけでなく、関東地方にも多くのゆかりの地がある。
相模国(現在の神奈川県の一部)には朝鮮からの渡来人が各所に住んでいた。なかでもよく知られるのは大磯である。作家の金達寿氏によると、オイソとは朝鮮語で「いらっしゃい」を意味する。この町にある高来(たかく)神社は旧名を高麗神社といい、高句麗からの渡来人に由来するといわれる。
なお日本では古来、高句麗のことを「高麗(こま)」といいならわしてきた。日本語の駒、駒下駄、駒岳、狛犬(こまいぬ)といった言葉は、いずれもそれからきたものだといわれる。駒(馬)という言葉そのものが朝鮮の国名に由来するという事実は、日本の馬文化と朝鮮半島の関係の深さを物語る。