間近に迫った天皇退位と新天皇即位において、4月30日に「退位礼正殿の儀」、5月1日に「剣璽等承継の儀」と「即位後朝見の儀」がそれぞれ行われる。市井の人々にはなじみが薄い皇室儀礼だが、注目される数少ない機会でもあるため、その意義や内容などをあらためて認識しておきたい。
宮内庁発表の今上天皇の退位に伴う皇室儀礼の予定は、以下の通りである。諸儀式を分類すれば、(1)宮中での奉告1、(2)神宮等への勅使派遣、(3)神宮等への親謁、(4)宮中での奉告2、の4つとなる。これらはおおむね即位の際と対応しているものであり、平成2年(1990年)には即位の奉告のために同様の儀式が実施された。ただし、即位においては即位後にこれらの儀礼が行われるのに対し、退位においては儀式後に退位が行われる点で異なる。
(1)宮中での奉告1
平成31年(2019年)
3/12 賢所に退位及びその期日奉告の儀
皇霊殿神殿に退位及びその期日奉告の儀
(2)神宮等への勅使派遣
平成31年(2019年)
3/12 神宮神武天皇山陵及び昭和天皇以前四代の天皇山陵に勅使発遣の儀
3/15 神宮に奉幣の儀
神武天皇山陵及び昭和天皇以前四代の天皇山陵に奉幣の儀
(3)神宮等への親謁
平成31年(2019年)
3/26 神武天皇山陵に親謁の儀
4/18 神宮に親謁の儀
4/23 昭和天皇山陵に親謁の儀
(4)宮中での奉告2
平成31年(2019年)
4/30 退位礼当日賢所大前の儀
退位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀
退位礼正殿の儀(退位の礼)
儀式全体の骨子となるのは「皇祖皇宗」への「奉告」、すなわち天皇の始祖たる天照大神と当代に至るまでの歴代の天皇の霊への報告にほかならない。およそ1カ月をかけて、これがなされるのである。すでに3月、宮中においては「賢所」および「皇霊殿」において退位期日の奉告がなされた。賢所は三種の神器のひとつである八咫鏡を祀る場所であり、この鏡は天照大神の霊魂の代わりとされている。また、皇霊殿は歴代天皇・皇后などの霊を祀る場所であり、すなわちここでは今上天皇自ら、皇祖皇宗に退位期日を奉告したということになる。
一方、奈良県橿原市にある「神武天皇陵」や東京都八王子市にある「武蔵陵墓地」、また天照大神を祀る伊勢神宮へ天皇の使いである「勅使」が派遣される。衣冠束帯に身を包んだ勅使が、天皇の代理として供物である「幣帛」を奉納するのである。俗な言い方をすれば勅使による代参にほかならないが、この後には「親謁」、すなわち天皇自らによる参拝が行われた。
ここまで見てきて思うのは、一見古式ゆかしいように見えて、実は近代以降、いわゆる「国家神道」の構築のなかで整備された儀式という感が強いということである。たとえば、祖霊に報告するというのであれば皇室の菩提寺であるところの泉涌寺への参拝、あるいは勅使派遣ぐらいはあっても良さそうなものである。
光格天皇の譲位を追う
それでは、前近代において退位はどのように行われたのであろうか。直近の事例として、光格天皇の場合を見てみたい。同天皇は幕末期の天皇として有名な孝明天皇の祖父に当たる人物で、博学多才にして詩歌にも優れたが、一方で朝権回復にも注力し、近代天皇制への道を開いた人物とされている。文化14年(1817年)に仁孝天皇に譲位し、上皇となった。この前後の動きを『光格天皇実録』に基づいて追っていこう。なお、年月日はすべて旧暦となる。
文化11年(1814年)
8/17 光格天皇 来春に譲位する旨を表明
9/11 光格天皇 伊勢神宮に例幣使を派遣
光格天皇による譲位の「お気持ち」表明としては、文化11年(1814年)にさかのぼる。当初は翌年の春の計画であったようだが、延引してしまったようだ。なお、伊勢神宮への勅使派遣記事があるので拾ってはみたが、「例幣使」とあるように、これは譲位とは関係がなく通例としての派遣である。
文化12年(1815年)
6/18 大久保忠真 院御料として一万石進上すべきの旨を申入
一条忠良 仙洞御所造建について幕府へ申入
幕府からの院御料献上について、時の京都所司代・大久保忠真からの申入れと、関白・一条忠良から幕府への仙洞御所の増改築依頼がなされたようである。天明の飢饉など「仙洞」とは言い条、霞を食べて生きるわけにはいかない様子。また、仙洞御所の増改築については、特に天明の飢饉などで延引されていた書院の新造を強く求めたようだ。
文化14年(1817年)
1/18 光格天皇 譲位の祝儀として幕府に賜物
光格天皇 仙洞御所増改築への尽力の褒賞として大久保忠真などに賜物
朝幕間の進物のやり取りが行われている。別途、大久保忠真らには仙洞御所増改築への尽力に対する褒賞が出ている。具体的には太刀、馬、反物、鯛の干物などが贈られたらしい。
なお、大久保忠真には縮緬と共に『九十賀記』の写本が贈られたとある。同書は鎌倉期の公卿・藤原俊成が90歳になったことを記念して開かれた歌会の記録であり、その子息である藤原定家をはじめとした歌人の作が並べられている。文化的価値もさることながら、俊成卿にあやかって長命長寿を祈るという縁起物としての意味合いもあったのではあるまいか。
文化14年(1817年)
2/14 光格天皇 来月二十二日卯の刻に譲位の旨を内定
3/11 光格天皇 譲位後の御幸始ならびに祝儀について表明
3/13 光格天皇 稲荷・梅宮両社へ行幸 譲位に関する祈祷を実施
2月に入るとあらためて翌月に譲位を行う旨を内定、ここから一気に動きが出てくる。「御幸始」というのは、この場合、上皇としての初めての行幸を意味する。また、現在の伏見稲荷大社や梅宮大社であるところの稲荷・梅宮両社にて祈祷を行っているのも興味深い。
文化14年(1817年)
3/19 光格天皇 譲位に伴う剣璽渡御の内見を実施
3/21 警固固関の儀
3/22 光格天皇 桜町殿へ行幸 皇太子恵仁親王に譲位
「剣璽渡御」とは、皇位継承の証として三種の神器の剣と璽(印章)を新天皇となる者に引き継ぐ儀式である。これは近代以降も行われ、今日においても「剣璽等承継の儀」として続けられている。昭和天皇崩御に伴って行われたものはテレビ中継もされたので、ご記憶にある方も多いだろう。
また、「警固固関の儀」とは、天皇の代替わりに際して「三関」と呼ばれた伊勢国の鈴鹿関、美濃国の不破関、越前国の愛発関(のちに近江国の逢坂関)を封鎖して通行を禁じたことに由来するが、どうやらこのときはそれらの関を封鎖するのではなく、御所の門を閉じるにとどまったようである。もちろん、普段は皇族や公家などが参内する際に用いる宜秋門も閉じられる。しかしながら、翌日に譲位を控えていることもあり、御所内外の出入りが必要であるため、いわば勝手口のような位置づけである清所門から出入りしたようである。
近現代に大きく変化した儀礼の形態
さて、ここまで光格天皇の事例を見てきたが、現在の形とはずいぶん異なるように思われる。特に、近現代における変化の大きさを思わずにはいられない。その点では、現在行われている儀礼は比較的新しい「伝統」であるといえるかもしれない。
しかしながら、儀式の形態は変わりながらも、新しい革袋に古い酒が注がれるがごとく、受け継がれ続ける本質的な部分もまたあるのではあるまいか。これから、いよいよ今上天皇の退位と新天皇の即位がなされることになるが、それがいったいなんであるのかを考えながら、今この時代に生まれ合わせた人間のひとりとして、行われる儀式を見届けていきたいものである。
(文=井戸恵午/ライター)