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不幸な最期を遂げた3人の「令和」…今、日本人が知っておくべき歴史的人物

文=井戸恵午/ライター
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不幸な最期を遂げた3人の「令和」…今、日本人が知っておくべき歴史的人物の画像1新元号「令和」について談話を発表する安倍晋三首相(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

 年号「令和」の発表に伴い、人物や地名はもちろん駅名などにも、広く「令和」探しが行われている。試みに中国の正史の類を眺めると、「令和」を字(あざな)とする3人の人物が目についた。「江謐」「趙邕」「乞伏慧」、いずれも我が国ではあまり馴染みのない人物であるように思う。そこで、少し列伝を読んでみることにした。「3人令和」の物語、しばしお付き合いのほどを。

実在した令和たちの数奇な運命

 まず、江謐(こうひつ)は南朝宋から斉にかけての官僚。字は令和。本貫は済陽郡考城県。文帝への呪詛を行ったとして廃立されようとしていた南朝宋の皇太子・劉劭の挙兵により、父・江徽を殺された江謐は、その混乱の中で我が身もまた獄につながれてしまう。武陵王劉駿が建康を平定するや解放され、官吏となった。物事に明るく経験も積んでおり、幹練才徳がその職務に適していたため、皇族の子女の葬礼のあり方をめぐる政治対立に連座して杖五十・奪労百日の罰を受けたりしながらも、順調に出世を遂げていく。

 469年、冠軍長史・長沙郡内史として出向し、湘州にて行った統治は過酷なものであったらしい。交流があり任地にも同行した僧遵道人が小事を犯したとして獄につないで餓えさせた。僧遵は自らの衣を裂いて食すというありさまで、ついには死んだという。この行為により糾弾され、江謐は都へと召喚されるが、明帝が死去すると赦免され、再び官途を登っていく。南朝宋が建平王劉景素の乱や沈攸之の乱などによって動揺する中で、のちに南朝斉の太祖となる蕭道成と結び、その建国に尽力した、しかし、482年、蕭道成が死去すると江謐は病と称して出仕せず、ついには豫章王蕭嶷に皇位簒奪をそそのかしたとして、死を賜った。

 江謐は数々の政争の中をくぐり抜け、果ては南朝斉建国の功臣となったが、最後に失敗して殺されてしまった。それは、太祖・蕭道成死後の武帝の体制との不調和によるものなのか、あるいは歴代王朝においてよく見られる功臣粛清のひとつであったのか。いずれにせよ、天寿を全うすることができなかった。

 次に、趙邕(ちょうよう)は北魏の官僚。字は令和。本貫は南陽郡の人であるという。眉目秀麗で諸事に通じていたので、少年の頃から北魏の司空であった李沖の寵を受け、李の家で諸事に奔走した。その信頼は増すばかりで、李の子どもたちとの交友を命じられたり、李沖に目通りを求める者は趙邕を頼って通じてもらったりするほどであった。

 太和年間(477~499年)には孝文帝の側近となり、次代である宣武帝即位後もこれに仕えたが、その崩御後に刺史として赴いた幽州において貪りをほしいままにしたという。特に范陽の盧氏との婚姻を無理強いしようとし、それに反対して娘を実家に匿おうとした母・陽氏の叔父を尋問のため鞭打ち、結果殺してしまったことが致命的となる。陽氏の訴えにより死罪に相当するとされ、赦しを得て死は免じられるも、失職させられた。以後は自らの名誉回復のためか役所へ訴え続けたが、ついにそれがなされることはなかったようである。

 趙邕は美男の上に才気煥発な人物であり、多くの人に愛されたであろうが、幽州における失政がそのすべてを奪ってしまった。前段における優秀さに比して、後段における豹変したかのような変わり方は意外な気がする。趙邕自身、名誉回復のためにか役所へ訴え続けているところを見るに、あるいは冤罪であったのかもしれないが、今となっては確かめる術はない。

3人の令和に共通する末路

 最後に、乞伏慧(きつぶくけい)は東魏および隋の軍人・政治家。字は令和。本貫は馬邑郡で鮮卑人である。若い頃から意気盛んで君に対する重い節義があり、弓馬に通じて鷹や犬を好んだという。東魏に仕え、兄の乞伏貴和と共に数々の軍功を挙げている。のちに北周に降り、隋の高祖となる宰相・楊堅の下でさらに活躍した。

 581年に隋が建国されると、乞伏慧は刺史として曹州へ赴任する。そこでは民によこしまな隠しごとが多く、戸籍帳簿が常に実態を反映していなかったため厳しく巡察を行い、結果として数万戸が新たに登録された。さらに、涼州総管に転じると、突厥の侵入に備えて烽火による連絡と警戒を厳ならしめている。突厥もまた乞伏慧の武威を恐れてか、みだりに越境してくることはなかったという。

 この後、寿州総管・杞州刺史・徐州総管を歴任するが、このときすでに70歳を超えた高齢のため、上表して致仕を願い出たが許されなかった。その上、荊州総管に転じたが、これらの地の風俗は軽剽であったことから、乞伏慧は自ら範となることで民の教化に務めた。また、604年に煬帝が即位すると天水郡太守となる。しかし、609年、隋が西方の吐谷渾を攻撃した際、その境に位置する天水は人々が労役に苦しめられることになった。また、煬帝が巡幸してきた折、道路が整備されず食事も粗末であったことにかかわって罪に問われてしまう。煬帝は側近に命じて乞伏慧を斬らせようとするが、老齢のためか髪がなくなっているのを見て一命を赦し、失職の上で民としたという。

 乞伏慧は将軍、また地方行政官として極めて優秀な人物であったが、吐谷渾との戦争の荒廃の中で失敗をしてしまう。ここで出てくる煬帝は遣隋使・小野妹子が謁した皇帝であるので、ご存じの方も多かろう。ここでも、一旦激怒した上で思い直すというスタイルである。髪がなくなるほどの老齢まで働き、辞めたくても辞められずにいたが、罪を得て職を失って始めて、ようやく安息の日々が訪れたのかと思うといささかの救いがある。

 以上、「3人令和」のいずれもがその能力によって出世をするも、最後に失敗する末路を遂げている。しかし、その人生はいずれもダイナミックであり、やはり大陸の歴史叙述の持つスケールを感じずにはいられない。そして、何より「3人令和」の生きた時代は、我が国が「大化」の年号を用いたとされる年の前であるというところに、その歴史の長きを思う。彼らもよもや、その千数百年後に東海中の島国で、己が字と同じ年号が用いられる日が来ようとは考えすらしていなかっただろう。
(文=井戸恵午/ライター)

井戸恵午/ライター

井戸恵午/ライター

フリーのライター。主にWEBメディアで執筆中。

Twitter:@idokeigo

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