巨大新聞社長の不倫相手は、かつて取材相手との“略奪愛”で週刊誌ダネになった女性
業界最大手の大都新聞社の深井宣光は、特別背任事件をスクープ、報道協会賞を受賞したが、堕落しきった経営陣から“追い出し部屋”ならぬ“座敷牢”に左遷され、飼い殺し状態のまま定年を迎えた。今は嘱託として、日本報道協会傘下の日本ジャーナリズム研究所(ジャナ研)で平凡な日常を送っていた。そこへ匿名の封書が届いた。ジャーナリズムの危機的な現状に対し、ジャーナリストとしての再起を促す手紙だった。そして同じ封書が、もう一人の首席研究員、吉須晃人にも届いていた。吉須と4ケ月ぶりに再会した夜、ふたりが見かけたのは、社長の松野が愛人との密会現場だった。そして、吉須からは例の手紙を預かった。中には、深井への手紙と同様の文面があった。
ジャナ研首席研究員の深井宣光が同僚の吉須晃人と4か月ぶりに酒を汲み交わした翌日、月が3月に替わったとはいえ、曇天で寒い日だった。
1時間遅れの昼過ぎに資料室に出勤した。受付の開高美舞の興味津々の顔が脳裏に浮かび、いつも通りに出かける気にならなかった。昼過ぎなら美舞が昼食に出ていて、顔を合わせずに済む、と思ったのだ。案の定、美舞はいなかった。
小1時間経ってドアが開く音がした。入口のところで美舞は立ち止まり、大声を上げた。
「今日はどうしたの?」
「昨日言い忘れたけど、今日は午前中に立ち寄るところがあってね」
「珍しいわね」
美舞は深井のいるソファーのほうに近づいてきた。
「ね、深井さん、吉須さんには会ったの?」
「いや、まだだよ。でも、先週金曜日に太郎丸(嘉一)会長が僕を捜していたでしょ? あの話、僕と吉須さんのふたりに、ある大学教授が会いたがっているということだったじゃない」
「ええ、知っているわよ」
「それでね、吉須さんがその大学教授に会う時には、僕が間に入ることになっているから、近々連絡を取り合う。まあ、その時に会えばいいかな、と思っているんだ」
「そうなの」
「舞ちゃん、ねえ、今日は予定があるから駄目だけど、明日久しぶりに一杯やらないか?ちょっと、面白い話を小耳に挟んだんだよな」
「いいわよ。でも、吉須さんも一緒?」
「舞ちゃんが望むなら、彼にも連絡しようか?いずれ、会わなきゃいけないからね」
「…別に…一緒がいいわけじゃないわよ」
美舞の受け答えは、なんとなく奥歯にモノが挟まったような感じがした。
「明日、ここで一緒になったら誘わないわけにもいかないよな。舞ちゃん、どうする?」
「…」
「そうだ。いい手がある。今日、もう出かけて戻らないんだけど、明日も昼間2件用事があるんだ。ここに立ち寄らないで、どこかで落ち合えばいいじゃない?」
少し曇った表情だった美舞は急に笑顔になって、うれしそうに答えた。
「そう、そうしましょうよ。明日は二人で久しぶりにぱっとやりましょ。それがいいわ」
「吉須さんと何かあったのかい?」
「何もないわよ。でも、ちょっと酒癖悪いの」
「そうかな、そんな感じしないけどな」
「まあ、いいじゃない。明日話すわ」
「それじゃ、どこで待ち合わせる?」
「このビルの一階の玄関でいいでしょ」
「じゃあ、午後5時15分にしよう」
「わかったわ」
深井はパソコンの電源を切ると、立ち上がり、部屋を出た。
●ガード下の飲食店街にある蕎麦屋
翌水曜日、前日同様に曇天で春めいた感じはなかった。深井が日亜オフィスビル玄関に着いたのは午後5時10分だった。きょろきょろしていると、美舞が後ろから声をかけた。
「早かったじゃない?」
「今日、吉須さん来た?」
「来なかったわ。電話もなかった。いつものことだけど…」
「じゃあ、資料室で待ち合わせてもよかったね」
「そうだけど、彼“鞍馬天狗”だから…」
「まあ、それはいいさ。どこに行くかい? 君が帰りに時々立ち寄ると言っていた蕎麦屋があったろ。ご馳走してもらうなら、そんなところじゃ嫌かい?」
「いいわよ。そこにしましょう。私、高いお店は駄目なの」
「本当かい? 昔は散々、男に御馳走になったんだろ?」
ビルの玄関を出たところで、美舞がむっとした顔つきで立ち止まった。
「悪かった。冗談だよ。ご機嫌直して。ね、舞ちゃん。あの店、東京駅の方だよね」
「そうよ」
少し柔和な顔つきになった美舞をみて、深井は歩き始めた。向かったのは有楽町駅から東京駅方向のガード下に延びている飲食店街だ。そこに美舞の行きつけの蕎麦屋があった。
「確かその店、前に一緒に行ったことあったよね」
「行ったかも…。その時“寄り道セット”って頼んだ?」
“寄り道セット”はつまみ二品とビールか銚子一本、せいろ蕎麦がついて1500円だった。
「そうだったかもしれない」
「私、独身でしょ。帰ってもすることないじゃないの。週1回くらい一杯やって帰るの」
「今日は俺が御馳走するから、〝寄り道セット〟じゃなくていいだろ?」
「いいけど、私、あまり食べないのよ」
「どうしてだい?」
「みればわかるでしょ」